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夥しい数のコウモリ

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 と手の平を返したかのように、政府を擁護し始めた。
 そんな情けない国民を見ていると、
「なるほど、あの政府にして、この国民か」
 と情けなくなってくる。
 確かに、政府は、
「自分たちの都合:
 で、この日本を引っ掻き回した挙句、パンデミックを抑えられなかった。
 もっとも、今回のパンデミックは、未曽有の大流行で、全世界で、その正体が分からないため、必要以上なまでの、抑え込み政策に入った、
「どこぞの国」
 もあったが、そこは、やりすぎとしか言いようはないが、それ以外の国では、流行を抑えることができなかった。
 しかし、あれだけ抑え込みをした、
「どこぞの国」
 でも、それだけやっても、抑えることができなかったことでも、
「結局、誰がトップとなって、政策を打ち出しても、結果は一緒だったのではないか?」
 ということに変わりはないだろう。
 それを思うと、
「結局、自分たちの都合で動いても同じではないか?」
 と国民は、そう感じるかも知れない。
 ただ、それを国家として、政府が政策に使うというのは、ありえないことで、政府に対しての不満は残るものの、制限がなくなるということには、手放しで喜ぶという人がほとんどなのも、無理もないことだろう。
 ただ、これは、あくまでも、
「今回のパンデミック」
 に限ったことでしかないのだ。
 今後、世界で、また流行るであろう、
「未知のウイルス」
 に対して、同じ対策で言い訳はない。
「そう、パンデミックの時代はこれからであり、今回の大流行は、まだまだプロローグでしかない」
 と感じている人が結構いて、そういう人が危機感を持っているのだが、ほとんどの国民は、
「これで、悪夢は去った」
 と思うことだろう。
 そして、またすぐにやってくるであろうパンデミックに対して、
「また同じことをすればいい」
 という安直な考えの人もいるかも知れないが、
「今度は、最初のウイルスよりも、もっとひどいものなのか、それとも、少しずつでも、軽いものになって言っているのか?」
 そう考えることで、
「なぜ、そんなことを考えたのか?」
 ということを思った時、それが、
「無意識のうちに、パンデミックのスパイラルが起きてきているということを、自分たちで認めているのだ」
 ということなのだと、分かるようになるのだろうが、その時に、この日本がどうなっているか、他人事のように考えれば、見ものだというものだ。
 それも、もちろん、自分がその時に、生きていればということである。
「世の中なんて、しょせんは、そんなものだ」
 といえるのではないだろうか?
 今の国民のほとんど、いや、政府の人間でも、
「これは、まだパンデミックというものの序曲でしかないのだ」
 ということに気づいていないだろう。
 たったひと時の安らぎは、ただの気休めでしかないのだった。
 だが、そのうちに、これからどんどん発生してくるウイルスの中には、結核や、がんにも負けないほどの大きな病気が待ち構えているに違いない。
 それこそ、
「令和の不治の病」
 と言われるものの誕生ではないだろうか?
 だから、前述で、
「不治の病は。どんどん医学の発達で少なくなってきている」
 とは言ったが、
「いずれはなくなる」
 とは一言も言っていない。
 むしろ、減るとも限らないではないか。
「不治の病が減るスピードよりも、不治の病の方が増えるスピードが速かったとすれば?」
 と考えれば、容易に想像のつくことである。
 そんな不治の病を治すには、どうすればいいか?
 これは、昔からSF小説などで言われていた、
「肉体の冷凍保存」
 という方法である。
 もちろん、希望者を募ってのことであり、肉体と一緒に、記憶や頭脳までも、冷凍保存ができるようになれば、不治の病が治る頃に、未来の人間に、冷凍保存を解いてもらい、そこから新しい人生の続きができると考えればという、まさに小説でしかできないような発想であった。
 もし、これを現実的なものとして考えた時、どうなるだろう?
 それらの開発が果たしてできるかどうか?
 というところから始まり、それが可能となれば、今度は、山積みになっている問題が、果たして解決されるかということである。
 まずは、数十年後に不治の病というもののその病気が不治の病ではなくなったと仮定した場合。
「どうして不治の病ではなくなったのか?」
 ということから、考えなければいけない。
 まず考えられることとして、
「その病原菌が死滅してしまっている」
 ということ。
 これであれば、冷凍から目覚めても、大丈夫であろう。
 しかし、不治の病と言われる菌は残っていて、特効薬ができた場合。
 これも、前者と同じであろう。
 しかし、特効薬による解消ではないと考えた時、それは、
「人間が、肉体を捨てて、サイボーグのような肉体を手に入れることで、病と決別する時代になっていた」
 という場合である。
 果たして、冷凍保存されていた頭脳や記憶をサイボーグが受け入れられるかどうかである。
 サイボーグに変わることができる人間が限られていて、サイボーグになれなかった人は死滅してしまったので。人口が減った。だから、冷凍保存していた人をサイボーグ化させて、できるものであれば、そこで労働人口を保たせようというもので、生き返ることができたとしても、過去からよみがえった人間は、しょせん、その時代では奴隷でしかないとすれば?
 そんなことを考えていると、
「生き返ることが、本当によかったのだろうか?」
 ということになる。
 もちろん、記憶も心もそのままに再生されるのだ。どちらかだけということでは、再生はできないのだ。
「俺たちは、こんな時代のために、何とか生き抜こうと思い、冷凍保存されたわけではないのだ」
 と考えると、それこそ、昭和の頃にあったSF映画を思わせるものになるのではないかと思うのだった。
 そういう意味で考えると、
「冷凍保存」
 というのは、諸刃の剣のようなもので、
「死ぬも地獄、生きのこるのも地獄だとすれば、死んだ方がマシだった」
 といえる時代が来るとは、誰が感じることであろうか?
 そんな話は、あくまでも、冷凍保存ができるようになってからの話だと思っているかも知れないが、そんなことはない。もし冷凍保存ができるなどということが、マスゴミや世間にバレると、ちょっとした社会問題になる。
 まず、政府やメーカーには、
「いつ、そんなことができるようになったんだ?」
 というクレームが絶えないだろう。
 政府批判をしたい連中にとっては、格好の餌でもある、
 まず、人権問題団体から、クレームが上がることだろう。
「人間を冷凍保存するということは、その人の尊厳を奪うことでもあり、イメージとしては、安楽死と同程度お問題ではないか?」
 と考えるからである。
 このまま生きていても、植物人間となった人は、助かる見込みもなく、ただ、生かされている状況を望むだろうか?
 しかも、その医療費は莫大なものだ。家族は、借金をしながら、生きているか死んでいるか分からない人間を生かして生かしておかなければならない。
作品名:夥しい数のコウモリ 作家名:森本晃次