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夥しい数のコウモリ

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 つまり、
「ウソばかりの中にこそ、本当のことが隠されている」
 といえるのだろう。
 だから、ウソを見抜く力は、本当を見抜く力でもある。
「コウモリという動物は、どこまでの逸話として本当なのだろうか?」
 と考えさせられてしまう。
 ある意味、コウモリという動物は、他の動物に比べて、
「これほど人間臭い動物もいないのではないだろうか?」
 とも思える。
「悪がしこいというのは、褒め言葉なのか、それとも、揶揄する言葉なのか、コウモリにとってはどっちなのだろう?」
 と思えるのだった。
 コウモリ自身、
「生き残るためには、仕方のないこと」
 だったのかも知れない。
 どちらにも、見えるということは、どちらにも近いということであるが、逆に言えば、
「どちらでもない」
 ということになる。
 それだけ、決定的に、それぞれの動物に比べて弱いということになるのだろう。
 だから、どちらを相手に喧嘩をしても勝てるわけがない。
 かといって、どちらかについてしまうと、いずれ、相手とは違うということがバレてしまい、殺されるか、追い出されるかするだろう。
 何しろ、
「相手方のスパイではないか?」
 と思われるからだ。
 そう思われてしまえば、殺されても仕方がないだろう。
 スパイ行為というのは、今の時代の戦争でも、かなりの重罪になる。スパイ行為をしてしまうと、国際法上の身の安全が保障されないことになるからである。
 人間の世界でもそうなんだから、獣や鳥と言った動物の世界で、許されるわけなどあるはずもない。
 そんなことを考えていると、
「生き抜こうと必死なコウモリを、卑怯だと言えるのだろうか?」
 と考えてしまう。
 しかし、戦争をしている当事者たちにとって、生きるためとはいえ、自分たちを欺いたのは、許されることではない。当然、鳥や獣から、無視されて、暗いジメジメした世界に追いやられても仕方のないことだろう。
 こんなコウモリのジレンマを、文学作品として描くと、一つの物語にまることだろう。寓話の世界でも十分に成り立っているが、それは、コウモリや動物の形を借りて、人間世界の中での、
「人間らしさ」
 を描いたのが、この寓話で、
 今度は、人間社会の中で、例えば、人間が作り出したロボットが、獣や鳥のような身体の機能を有し、戦争をしていて、身体が不完全で、鳥にも獣にもなりきれないロボットが苦悩している様子を描いていたのだ。
 その様子は、次第に、鳥か獣のどちらかが、人間でいうところの、
「正義か悪か」
 ということになり、コウモリはその中途半端性から、
「悪にも正義にもなり切れない」
 というものであった。
 だから、正義か悪かで揺れ動き、精神的に中途半端なために、生き残るため、どちらにも加勢をしないと、生き残ることのできないという、いわゆる、欠陥製品でもあった。
 ただ、能力的には、どちらの特徴も有しているので、
「コウモリロボットは、使いようによっては、利用できる」
 として、生き残りのために、必死になっているコウモリロボットを利用しようと考えていた。
 一匹だけでは、一対一の戦いに敗れるコウモリも、集団で行動する、同じ数の、複数による合戦では、負けなしだった。
 それだけ団体戦では、自分たちの特徴を生かすことができて、負けを知らない。
 それだけ団体戦のように、ひしめいて戦う分には、目が見えないという特性を生かして、混沌とした戦場において、敵味方の区別も簡単について、混乱することなく、戦いに慢心できるのだ。ある意味、
「やつらは、団体戦をするために生まれてきたも同然だ」
 と言われるのだが、まさにその通りであろう。
 団体戦というのは、考えたり、躊躇すると、急に怖くなったり怖気づいてしまったりする。
 しかし、コウモリロボットにはそれはなかった。
 猪突猛進というやり方は、いかにも、先遣隊として突進する一番隊にふさわしいと言えるだろう。
 鳥や獣についていた先遣隊としての、コウモリロボットが、まず緒戦で戦うことになる。それは、ある意味相打ちを意味した。
 その間に、後ろで本隊が体勢を整える。それが、緒戦での作戦だったのだ。
 あの寓話は、あくまでも、
「コウモリが、自分が生き残るために、卑怯な手段を使って、生き残りをかけたために、バチが当たって、あのような孤独で、辛い環境に追いやられた:
 ということを書いているようだが、拡大解釈をすると、逆に、
「コウモリは、卑怯ともいえる方法ではあるが、自分の生き残りのために、必死に考えて、力のない自分をいかに守るかという課題を見事にクリアした」
 ということも言えるのではないだろうか。
 だから、孤独で寂しい場所で、暮らさなければいけない環境になったが、決して滅びることもなく、自分たちだけの世界で、繁栄し、目が見えなくても、超音波を使って、自分の位置を知ることができるという、少なくとも人間にはない超能力を用いることで生き残っているではないか。
 そういう意味で、
「卑怯なコウモリ」
 という話は、それぞれの解釈によって、正反対の意味として読み取ることができる。
 もちろん、読んだ人間が、どのような生活環境にあるか、そして育ってきた環境、さらには、持って生まれた性格だったり感情が、解釈するのに、いろいろな影響を与えているに違いない。
 コウモリというものが、実際にどういう動物なのか、今ははかり知ることはできないが、人間にはなく、そして他の動物にも見られない特殊な部分が多いことはよく分かったのだ。
 ただ、コウモリというのは、鳥と一緒で、皆同じところにいて、集団で動いているように見えるが果たしてそうなのだろうか?
 もし、コウモリに感情があるのだとすれば、コウモリ一匹一匹に個性があり、
「俺は、他の連中と同じでは嫌なのだ」
 と思っているとすれば、どうなのだろう?
 そもそも、その性質上。つまり、今の環境になった理由を、描いたといってもいいといわれるイソップ寓話でも、まったく違った解釈ができるではないか?
 そうなると、コウモリも皆、集団で動いているように見えて、実は自分の性格で生きているのではないか、
 一匹ごとに違った性格を持っていて、ただ、その習性から、他の動物には、皆同じに見えてしまう。
 それは、言葉を話せないという意味で、コウモリだけに言えることではなく、他の動物にも、その可能性はないわけではない。
 ただ、他の動物の可能性が、限りなくゼロに近いようにしか思えないことを考えると、コウモリという動物の可能性は、人間とまではいかないが、かなり高いものではないかと思うのだった。
「コウモリの性格が分かるようなものか、言葉があるとすれば、それを解読できるようになれば、人間にとって、大きな一歩となる発明となるのではないか?」
 と、そんな風に考えたのが、長治だった。
 彼が、そんな発想に至ったのは、まだ十歳にもなっていなかった、小学生低学年の頃だった。
 もちろん、漠然としたもので、
「コウモリって、他の動物と違って、不思議なところが多いよな」
 という感覚を持っていた。
 だが、それは漠然としたもので、その頃はまだ、
「卑怯なコウモリ」
作品名:夥しい数のコウモリ 作家名:森本晃次