夥しい数のコウモリ
と、まるで、戦時中のようではないか。
もちろん、作った人のことを考えると、気の毒には思うが、
「まずいものはまずい」
のだ。
それなら、作った百姓も、
「まずいと思って我慢して食べられるよりも、無理なくメニューを変えて作れば、少しは延命になるのではないか? 少しでも、長く、まずいと思わず食べてもらえれば、それでいいはずではないか?」
と考えたのだ。
どうして、親世代の昭和の堅物には、そういう柔軟な考えがないのだろうか?」
やはり、自分たちが、食料のない時代に育った親に育てられたことで、とにかく、
「食事ができるだけでも、ありがたいと思え」
という、人間の身体を度返しした考えなのが、信じられないのだ。
親も親である。
「いくらみそ汁の具を毎日変えたところで、みそ汁の原点の味や、コメの堅さ加減に変わりはないのだ。そんな食事、今だったら、一週間で皆飽きるレベルではないか?」
と思われる。
そういえば、昭和の頃に言われていた定説が、今の時代であれば、そのほとんどが、
「迷信だった」
と言われているではないか。
もちろん、自然環境や、世の中の変化というものがあるが、昔の定説が全部正しいというわけではないということだ。
例えば、
「スポーツをする時に、水を飲んではいけない」
と言われていた。理由は、
「バテるから」
と言われてきたが、今では、
「脱水症状になったり、熱中症になる」
といって、必ず適度な水分を摂るようにと言われているではないか。
実際に定説だと思われていたことが違ったとすると、下手をすると、今、
「これが定説だ」
と言われていることが、数十年経つと、
「いやいや、あれは、令和の迷信だったんだ」
ということになりかねないことだってたくさんあるかも知れない。
ひょっとすると、昭和の伝説を覆した、
「水分は、運動中、摂らなければいけない」
と言われていることも、今から数十年後には、
「やっぱり、水分を摂ってはいけない」
となるかも知れない。
それは、気象などの自然環境であったり、科学の発達によって、身体が変化してくることであったりするからではないだろうか?
だから、長治が、
「朝食を毎日同じものだと耐えられない」
と思ったのも、昭和に育った親たちとは、身体の作りが違うのかも知れない。
もちろん、精神面であっても、肉体面であっても、親と子で同じだという考えこそ、堅物の考えであろう。
確かに遺伝子で受け継がれているものではあるだろうが、まったく同じなどという考えはナンセンスだ。
逆に、
「相手の気持ちが分かるだけに、余計に同調したくない」
と考える人もいるだろう。
それは子供の側からだけではなく、親からの側に立ってみても、同じことが言えるのかも知れない。
そんなことを考えてみると、
「今の世の中のように、他人に押しつけをやめさせるような、コンプライアンスという考え方が生まれてきたのは、タイムリーなことではないだろうか?」
ともいえるだろう。
ただ、問題は、
「やりすぎ」
というのは、どの世界であっても、考えなければいけないことで、急にそれまでの習慣や考え方を変えるということは、それまで、肩身の狭かった人たちが、大手を振って歩けるということであり、一歩間違えると、立場が逆転するだけで、勢力図が分かるだけであれば、何の問題の解決にもなっていないと言えるだろう。
男女平等などと言われていて、それまで、男尊女卑だったのが、変わっていくのはいいのだが、だからといって、
「女性だから」
と今までは、ダメだったものが、今度は、
「女性なんだから許させる」
ということになってしまうと、行き過ぎとなってしまい、下手をすると、女性なら大丈夫ということで、別の犯罪を生み出してしまうことになりかねない。
そのあたりのストッパーを考えておかないと、歯止めが利かなくなり、今度は女性中心の世の中になってしまう。
そういえば、以前、オリンピック委員の元ソーリの男性が、
「女性が、話が長いから、会議がまとまらない」
と発言したことで、社会問題となり、辞職に追い込まれた。
「女性差別だ」
というのだが、どこが女性差別だというのだろう?
統計的な話をしただけではないか?
確かに、元ソーリで、会長という立場の人が話したのだから、それがまずいというのであれば、百歩譲って、理屈としては分からなくもないが、だからと言って辞職に追い込むというのは、何か違うと思うのは、長治だけであろうか?
要するに、過敏に反応しすぎるような気がする。それこそ、慣れが進んでくると、人を攻撃することに慣れ切ってしまい、騒ぐほどのことでもないことを、過敏に反応してしまうことで、集団意識というものも手伝って、一人の人間が、
「それくらいいいじゃないか」
と言えない状況になるのも問題ではないか?
それが、
「やりすぎ」
という考え方である。
科学の融合
話が逸れてしまったが、コウモリの逸話の中で、
「卑怯なコウモリ」
というイソップ寓話の話があると言ったが、前述までの話は、コウモリの生態に関したところで、この話は、
「結果的に、コウモリの生態系がどうしてそうなったのか?」
ということを証明するかのような話であった。
このお話は、まず、
「獣と鳥が戦争をしている」
というところから始まるだった。
どちらにも、ついているわけではなかったコウモリは、鳥にあったら、
「自分は羽根があるので、鳥だ」
といい、獣に対しては、
「自分は、毛深いので、獣だ」
といって、うまい具合に立ちまわっていた。
しかし、そのうちに、両者の戦争が終わると、それぞれに対してうまく立ち回ったコウモリの態度がお互いにバレてしまい、両方から疎まれる結果になったのであった。
それで、コウモリは孤独になってしまい、暗くジメジメした洞窟の中で暮らすようになったというのが、このお話だったのだ。
目が見えないのは、きっと、暗いところにいて、目が退化してしまったか何かではないかと思われる。
「暗いところに住んでいて、目が見えない」
というエピソードを、こういう話で作り上げるというのが、実にイソップ寓話だと言えるのではないだろうか?
考え方によっては、どこか聖書に似ていないこともない。さりげなく、教訓を織り交ぜるところなど、日本の昔話にも言えることであるが、
「一体誰が、こんな話を思いつくのだろう?」
と思えるのだ。
話が一つであるなら分かるが、これだけたくさんの話を作り上げるわけなので、意外と、いろいろなところに伝わっている話を、つなぎ合わせて、まるで
「短編集」
というような形で作り上げているのかも知れない。
いわゆる、
「口伝」
という形で伝わった話が、おとぎ話になり、寓話と言われるものになってきたのではないだろうか?
そういう意味では、
「中には、本当の話もあるのかも知れない」
と思えるから不思議だ。
「本当のことは、たくさんのウソの中に紛れ込ませる」
という言葉もある。
要するに、
「木を隠すには、森の中」
というではないか。