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生と死の狭間

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 それを考えると、ひょっとすると、戒律の解釈を間違えているだけなのかも知れないが、「宗教を信じたところで、一体誰が幸せになれるというのか?」
 ということである。
 すべての歴史は、時代背景によって支配される。戦国時代のような群雄割拠な時代に、
「人を殺めてはいけない」
 などというのは、それこそ、欺瞞でしかない。
 しかも、当時の大航海時代、欧州から、武器やキリスト教が入ってくる。そもそも、この二つが矛盾しているのではないか。
 さらに、キリスト教布教というのは、まず、宣教師がその国の君主に、
「キリスト教を布教させてほしい」
 と言って、珍しいものを献上して、安心させ、布教させておいて、目的は貿易での金儲けのつもりでいたが、相手の国の目的は、
「キリスト教を布教させて、内部で政府批判を起こさせ、その混乱に乗じて、兵を進め、いかにも合法的に、相手国を植民地にする」
 というやり方をしていた。
 それこそ、工作員を潜り込ませ、クーデターを煽り、そのクーデターが起こったところで、介入し、相手を服従させるという、冷戦時代の社会主義国のようではないか?
 日本はそれに気づいていたのか、それとも、自分たちが統治していくうえで、キリスト教が邪魔だと思ったのか、秀吉にしても、江戸幕府にしても、キリスト教禁止令を出している。
 しかも、江戸幕府は、鎖国まで行っていたのだ。
 これは、貿易に目を瞑り、その利益を犠牲にしてでも、自国の統治と安定を目指したと言えるだろう。
 ある意味、幕府も途中から、財政は最悪でありながら、260年という長期政権を、天下泰平ということで過ごしてこれたのも、鎖国制度のおかげだと言えるだろう。
 もっとも、立地的な問題もあって、日本が島国であることや、大陸にての、抵抗などがあったことで、日本が、完全な植民地ぬされなかったことは、歴史上、重要な出来事であったのだろう。
 とにかく、人間の死というものは、
「永遠のテーマ」
 だと言ってもいいのかも知れない。
 特に人の生死に、宗教が関わってくると、ロクなことはない。
 いや、宗教が関わってくる時点で、人の生死というものを無視して考えることはできないというものであろう。
 秀吉にしても、江戸幕府にしても、キリスト教禁止令を出したのは、自分の政治の上で、目の上のたんこぶになるであろうことを分かっていたからであろうが、ひょっとすると、本人か、それとも、重鎮の誰かが、
「宗教の本質」
 というものを分かっていて、
「キリスト教を進めてしまうと、国を本当に滅ぼすことになる」
 と、他の国が侵略されていった事情を分かっていて、その懸念から、強引なキリスト教禁止令を出したのかも知れない。
 今の教育では、
「キリスト教弾圧」
 ということで、
「ひどい時代だった」
 と教育されてきているが、当時の政治家であったり、幕府の重鎮にはすべてが分かっていて、
「キリスト教の侵略を止めるには。ここまでしないとできない」
 と考えても苦渋の選択だったのかも知れない。
 それを思うと、
「細川ガラシャの悲劇」
 というのも、そもそも矛盾から成り立っているのであり、今ではこれを美談のように言われているが、
「キリスト教弾圧が悪いことだ」
 という解釈と、裏表の教育として、語り継がれてきたものだと言えるのではないだろうか?
 ここまで考えてくると、
「人の死」
 というものと宗教を考えると、少なからずの矛盾が存在する。
 そう思うと、
「宗教にはそもそも、矛盾した考えがたくさんあるのであり、それが次第に分裂を招き、たくさんの宗教ができたのではないか?」
 と言えるのではないだろうか?
 そもそも、宗教というのは、その地域に一つのもので、それが、分裂していくうちに、今のように、無限に広がるような宗派の数が出てきたと言っても過言ではないだろう。
 慕う神も違えば、戒律も違う。中には一つのことを正反対に解釈されるものもあるだろう。
 もし、宗教が正しいのだとすれば、人それぞれに正しいものが存在しているということであり、結局、争いがなくならないのも、そのせいだと言えるのではないだろうか?
 世の中において、宗教というのは、
「本当は人間の数だけあるのかも知れない」
 と言ってもいいだろう。
 宗教によっては、
「人の血が混じることを許さない」
 つまりは、輸血を許さないというものがある。
 そうなると、注射も手術もできない。伝染病や命に係わる事故や、戦争での被害に遭っての重傷者など、
「手術ができない」
 ということで、ケガをしたり、病気になった時点で、すでにその人の寿命は終わりなのだ。
 これが子供であっても同じことで、まだ自分では理解ができない子供が、親の宗教信仰のために、
「助かる命が助からない」
 ということは、世界中でざらに起こっていることではないだろうか?
 だからと言って、宗教のすべてを否定するというわけではないが、少なくとも、
「人間の生死」
 というものに対し、宗教が足かせになっていることは間違いないということであろう。

                 自殺菌

 そんなことをいろいろ考えているうちに、自殺などというのは、
「実にくだらないことだ」
 と思うようになってきたのだが、秀郷は、自殺がくだらないと思うのと同時に、
「生きているのも、虚しいだけだ」
 とも、思うようになってきた。
「死ぬ」
 ということは、確かに、自分で選べない。
 あくまでも、自殺を否定するという考えに立ってみればのことであるが、秀郷は、ガラシャの場合とは違う意味で、自殺について考えてみた。
 しかし、考えれば考えるほど、考えがまとまらず、どうも同じところをグルグル回っているだけにしか思えなかったのだ。
 つまりは、
「永遠に結論は出ないのではないか?」
 ということである。
「永遠のテーマ」
 だと思っているのだから、それも当たり前のことだが、考えているうちに疲れてきて、次第に考えるのが億劫になってきた。
「だったら、生きるという方から考えるのも、一つではないか?」
 と思えてきた。
「押してもダメなら引いてみな」
 という言葉のような感じである。
 確かに押してみると、何も起こらない。
「じゃあ、引いてみると?」
 と考えると、やはり、何か結論が見えてくる気もしないのだ。
 しかも、死について考えるよりも、生きることについて考える方が漠然としていて、死のように味わったことのないことを考えるよりも、
「生という今実際に味わっていることまで分からないのか?」
 ということが、どうにも解せなかったのだ。
「生きる」
 ということは、どういうことなのか?
 と考えさせられる。
「生きるということは、息をして、食べたくなったら食事をして、眠くなったら眠る」
 ということの繰り返しだとまずは考える。
 いわゆる本能であろう。そして次には、まわりがいることに気づく、親などの肉親、自分に関係のある学校であればクラスメイト、さらに、就職すれば、同僚、さらに年齢差によって、先輩、後輩もできてくる。
 ただ、ここで一つまず浮かんでくる疑問であるが、前述のように、
作品名:生と死の狭間 作家名:森本晃次