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生と死の狭間

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「生まれることを選べない」
 というのと、
「人間は生まれながら平等だと言われているが、本当なのだろうか?」
 という疑問である。
 要するに、どんな親から生まれるかによって、生まれた瞬間から、金持ち、貧乏人ということで、不平等ではないか?
 民主主義の教育として、
「人間は生まれながらにして平等だ」
 と言われているが、果たして、そうなのだろうか?
 そもそも、民主主義というものの考え方は。
「法律に定められた中での自由競争」
 あるいは、
「何かの決定に多数決を取る」
 というものである。
 法律に定められたという法律というのも、そもそも、国家が、国民を統治していくうえでの法律であり、個人の意思よりも公共の福祉が優先される。
 さらに多数決で決めるということは、少数意見は、まったく切り捨てられるということで、
「これの何が平等だというのか」
 と言いたい人も多いことだろう。
 自由競争にすると、どうなるかというと、
「貧富の差が激しくなる」
 ということであり、つまりは、生まれながらお平等というものを、ことごとく否定する考えが、民主主義ではないかと思えるのだ。
 つまりは、教育で習うことと、実際に起こっていることでは、天と地ほどの差があるのだ。
 社会主義、共産主義という考え方が生まれたのも、
「そんな民主主義の欠点を補う考え方」
 ということで生まれたはずではなかったか。
 ただ、そうなると、すべてを国家が握ることになる、すべてが国営、そのため、頑張った人も、怠けている人も、給料が同じとなると、個人的に大きな差別が生まれてくる。
 もっとも、民主主義でも同じだ。
 会社の同じ部署でも、一人の人に仕事が集中してしまって、肩や、就業時間に遊んでいるような人がいるかと思えば、一人に集中して、毎日会社に泊まり込みなどという人もいたりする。
 それでも、給料が少しは高いかも知れないが、長い目で見れば、集中させられた人は、思い切り損をしていると言ってもいいだろう。
 それを考えると、
「民主主義というのも、何がいいんだか」
 と思うのも無理もないことではないだろうか?
 社会主義も、民主主義も、一長一短であり、どうしても、政府を考えるのか、個人を考えるのかという見方によって、考え方が変わってきて、それによって、結果として、
「埋めることのできない溝ができてしまい、永遠のテーマがここにも出来上がる」
 と言えるだろう。
 そうなると、すべてのことは、
「永遠のテーマ」
 だと言えるのではないだろうか?
 自分が一体、どのような生活をしていけば、この世で生きていけるかというのは、主義によって決まってくるので、
「一人の力なんて、しょせんは知れている」
 ということだろう。
 政府や、領主から搾取されて、クーデターを起こすことも、生きるためという意味では仕方のないことであろうが、成功しても失敗しても、そこには、殺し合いという悲惨な問題が孕んでくる。
 国によって、さまざまな主張もあるので、何とも言えないが、
「戦争や紛争というのも、人類の永遠のテーマの一つ」
 だと言えるのではないだろうか?
 今の世界において、どのように生きていくのか、まったく分からない時代になってきている。
 基本的には、戦争が起これば、まず考えることは戦うということだ。
 戦争というものには、自由は存在しない。
「国家のために戦う」
 ということになるのだろうが、果たして、国家というものが、人が殺し合うほどまでして守らなければいけないものなのだろうか?
 特に今の時代の日本などは、政治家が腐敗しきってしまっていて、自分の保身のために、部下が自殺をしても、
「私には関係がない」
 と言ってほざいていた、元ソーリもいたではないか。
「もし私にやましいことがあったら、ソーリどころか、国会議員も辞める」
 ほざいたことで、その責任を押し付けられて、自殺に追い込まれた人である。
 その奥さんが、
「証拠だ」
 と言って提出した故人のノートも政府に、
「すでに解決済み」
 ということで握りしめられる状況で、他の議員も、誰もがその元ソーリに逆らえないことをいいことに、病院に逃げ込んで、
「私は病気だ」
 と言って、ソーリを投げ出しておきながら、今また、ほとぼりが冷めたと思ったのか、のこのこ出てきているような、そんな腐った国である。
 それはさておき、今の時代、何が怖いかということであるが、順位をつけるのは、難しいのかも知れないが。
「不安」
 というのが、かなり上に位置しているのではないかと思うのは、無理もないことのように思える。
 不安というと、たくさんある。
 お金に対しての不安、まわりの人が自分のことをどう感じているかという不安、つまりは、不安の元凶として、
「自分一人でこの世が成り立っているわけではない」
 という当たり前のことであった。
 確かに、前述のように、まわりには幾層にもなった関係の人がたくさんいて、家族親族から、友達や利害関係者、そして、まったくの第三者であるが、自分の生活範囲内にいる他の人、そして、生活範囲内にいない、その他大勢の人、いつどのようにかかわってくるか分からないという意味で、どこまでが、意識すべき人なのか分からなくなることがある。
 少なくとも、利害関係にある人間までは、その範囲内だと言ってもいいだろう。
 そうなると、相手が増えれば増えるほど、争いの元になったり、その争いの元が自分だったりということもある。
 一番怖いのが、
「争いの元になっているのが、自分なのだということを知らずに、まるで他人事のようにしているのを、まわりが冷めた目で見てしまうこと」
 なのではないかと思うのだった。
 争いというのは、どの程度のものかというのも、大きな問題なのではないかと思うのだが、ちょっとした意見の違いで、自分に近しい人であれば、お互いが分かり合えた時、それぞれに、
「成長した」
 ということで、プラスになることもあるだろう。
 しかし、そんなことは、限りなくゼロに近い。
 もし成長したのだと思ったとしても、それが勘違いであったり、その思いに多少の個人差が生じてくれば、
「それは、今度は新たな争いの火種になっているのかも知れない」
 と感じるのだ。
「一つを解決しても、そこにすぐに新たな火種が生まれるかも知れない」
 この考えが、次第に大きくなってきて、
「結局、永遠のテーマというのは、一つが解決しても、新たに別のものがすぐに生まれてくるようなものではないか?」
 ということで、たとえとしては違うがイメージとして、
「まるで、トカゲが尻尾を切られても、また生えてくるかのようなもので、永遠にとどまるところを知らない」
 というものではないだろうか?
 ただ、永遠という意味では同じであり、どこまで言っても、
「交わることのない平行線」
 を描いていることになるのかも知れない。
 その平行線というのは、見えてくるわけではない。
 実際にその延長線上の中央から両方の線を見ていると、どんどん近づいてきているのだ。しかし、その先には、
「どこかで重なる」
 というようにしか見えない。
作品名:生と死の狭間 作家名:森本晃次