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生と死の狭間

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 それらのことを考えてみれば、山崎の合戦が、すべて事前の計画を練られていたとしても、ここまでうまく行ったかどうか?
 何しろ、あの用心深い光秀が、こんなに早く秀吉が準備できるとは思っていなかったはずだからである。
 いくら、光秀が本能寺攻撃を、寸前に決めたとしても、それを最初から分かっていなければ、秀吉が天下を取ることなどできなかっただろう。
 ひょっとすると、
「秀吉は、予知能力があるのかも知れない」
 という考えもあるが、そうでなければ、
「どうしてここまで、秀吉が準備周到にできたのか?」
 ということの説明がつかないではないか。
 それが秀吉が最初から立てた計画だとすれば、すべてにおいて辻褄が合う。
「ひょっとすると、賤ケ岳の合戦くらいまで、最初からの計画にあったのかも知れない」
 と思うほど、そこまであまりにも電光石火だったからである。
 柴田勝家がいなくなり、織田軍団の長は、秀吉だということになるからである。
 もし、秀吉に、唯一の失敗があったとすれば、
「お市の方が、柴田勝家と一緒に自害した」
 ということだろう。
「浅井長政の時の小谷合戦では、何とか助けることができたので、今回もできるだろう?」
 という甘い考えがあったのかも知れない。
「意外と人たらしと言われた秀吉だが、女心が分からないところがある」
 と言われるのは、そのあたりからなのかも知れない。
 それでも、そんな時代の中で、秀吉は順調に天下を統一していく。難敵である徳川家康に、小牧・長久手の戦いでは、
「戦術では負けたが、戦略で勝つ」
 という形で、家康を従わせ、四国、九州の、長曾我部、島津を従えさせ、最期に、関東の、後北条氏を従えさせることで、東北までも支配下に抑えて、いよいよ、天下が統一された。
 その後、秀吉には、自分の大切な人が次々に死んでいくという不運もありながら、何かに狂ったように、異常な政治を始めた。
 最後には朝鮮出兵などを2度も行い、失敗してしまうが、結局、突っ走ったまま、死を迎えることになった。
 秀吉亡き後、家康が、いよいよ天下取りに名乗りを上げてきたが、豊臣勢力では、力不足と言われた、石田三成が、挙兵した。圧倒的な戦力さと、さらに、光成の強引で、しかも、前線で戦う武将の気持ちを顧みないという欠点のため、なかなか味方が集まらない。
 そんな時、家康が、会津の上杉征伐に出かけて、留守の間に三成が挙兵することになるのだが、その時、家康にしたがって征伐に出かけた武将の家族を人質にしようと考えたのだ。
 その時に、忠興の妻である、細川たまも、そのターゲットとなった。
 たまは、その時にはすでに、キリシタンとなっていて、洗礼も受け、
「ガラシャ」
 という名前ももらっていたのだ。
 そのため、三成が攻めてきた時、自分の身の振り方を考えた。
「本来なら、ここで自害して、自分の夫の足かせにならないようにしないといけない」
 ということを考えた。
 当時の戦国大名の妻であれば、誰もが考えることであった。
 しかし、ガラシャとすれば、自分はキリスト教徒である。つまりは、自殺というものは許されないのだ。
「では、どうすればいいのか?」
 と考えた時、彼女は、
「じゃあ、自分の配下の人間に、自分を殺させればいいのだ」
 と思ったのだ。
 そのため、配下の人間に命じ、
「もうダメだ」
 となった時、その人に自分を殺させ、自殺ではないとして、彼女も、戦国の一人の悲劇の女性として、後世に語り継がれることになったのだ。
 だが、考えてみれば、それが本当に正しいことなのだろうか?
 確かに彼女は、自らで命を断ったわけではないが、死を目的として、人に殺させたわけである、
 これを果たして、
「自殺ではない」
 と言えるのだろうが。
 確かに、敵が攻めてきていて、もう選択肢が少ない中で、自殺は許させない。人質にされるわけだから、相手は自分を殺すはずはない。
 実に限られた短い時間で、選択肢も少ない。そして、正解と言える結論が果たしてあるのかどうかも分からない中で見つけた結論だったのだろう。
 ガラシャは、確かに、これだけの条件の中で決めるには、それ以外に方法はなかったのかも知れないが、冷静に考えると、
「自害できないということで、自分の意思で、配下に自分を殺させるというのは、どうなのだろう?」
 殺さなければいけなかった配下の者も、そんなことを押し付けられて、断るわけにもいかない。
「戦なんだから、相手が敵であれば、お互いに殺し合いの中なので、殺されても、相手を殺しても、武士として、本望だと言えるだろうが、何の抵抗もしない人を、介錯でもなく、命を奪うというのは、理不尽である」
 と言えるだろう。
 しかも、それは自分の意思によるものではなく、いくら、仕える相手であるとしても、たまらないだろう。
「どうせ、討ち死にすることになるのなら、潔くありたい」
 と思うのが武士のはず、その人の気持ちを踏みにじってまでも、自分が自害できないという理由だけで、
「死ぬ」
 ということを、他人に押し付けていいものだろうか?
 確かに、
「人を殺めてはならない」
 という戒律の中で、自分だって含まれるということで、
「自殺はいけないことだ」
 というのは、分かり切ったことではある。
 しかし、世は戦国時代、いや、日本の子の時代に限らず、世界中で、戦のない時代などありえないと言ってもいいだろう。
 そんな歴史の中で、宗教が一体何をしてくれたというのか、下手をすれば、世の中に起こっている戦争の半分近くは、宗教がらみの戦争ではないか。民族戦争と同じくらいに、宗教がらみの戦争は起こっている。つまり、それだけ民族間で、宗教も違えば、考え方や価値観も違ってくるというものだ。
 それを考えると、
「そもそも、人類は一つだと言っている宗教もあるが、それなのに、どうしてこれだけたくさんの宗教があるというのか、下手をすれば、同じ宗教でも、派閥があったり、新教、旧教などと言われるように、派生型の発想が生まれたりするではないか。それだけ神様だってたくさんいて、似たような神もいれば、まったく違う神だっている。それを考えると、宗教など、本当に信じられるものなのか?」
 と思えてきて、宗教に不信感を抱く人もいるだろう。
 さらに、今の時代になると、(昔にもあったのかも知れないが)宗教という名の元に、平気で人を騙したり、殺すことさえいとわないものもあるではないか。本当に、宗教の戒律は、
「人を殺してはならない」
 と言っておき、生贄や人柱などというものだってあるではないか。
 王が死んで、巨大な古墳にその遺体が収められる時、王に従していた連中も、一緒に殺されて、葬られるという話を聞いたこともある。
 それを考えると、
「戒律というのも怪しいものだ」
 とどうして誰も思わないのだろう?
 少なくとも、細川ガラシャの悲劇において、出てきた結論が、
「配下の人間に殺させることで、自殺ではない」
 という、言い方は悪いが、欺瞞な言葉でごまかしたようなものではないか。
作品名:生と死の狭間 作家名:森本晃次