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生と死の狭間

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 一人の人間の中に、別の人格があり、薬の効果で、裏に潜んでいた自分を表に引っ張り出すことに成功したのだが、そのもう一人の自分というのが、とんでもないやつだったということだ。
 秀郷が感じた思いは、他の人とは少し違っているのかも知れない。彼が感じたのは、
「もう一人の自分、つまり、ハイド氏という性格は、隠すべくして隠しておかなければいけない人物で、なぜ誰が隠したのかは分からないが、本当の表に引っ張り出してはいけない人物で、押し込めておいたのは、あくまでも、封印していたのだった」
 という風に感じたのだ。
 あの小説を読んで、たぶんほとんどの人は、
「人間には、もう一つの人格が存在し、その性格は、自分とはまったく違う正反対の性格である」
 ということを感じたことだろう。
 しかし、それはあくまでも、
「衝撃的な内容に、ビビッてしまったので、驚愕が頭から離れない」
 という、直接的に神経を刺激した内容としての記憶と、衝撃に違いない。
 しかし、秀郷は違った。
 一歩進んでいるというのか、すでに他の人が感じたようなことは、密かに感じていて、その上で、
「どうして、裏に回っていて、普段は絶対に表に出てこないようになっているのか?」
 ということを考えさせる話だと感じたのだ。
 確かに、物事には、理由が必ずあって、その理由は、理屈ではないということなのだろうと思った。
 だから、秀郷は最初から分かっていることを、もう一度感動するような無駄なことはせず、再度聞いたこの話に、一歩進んだ考え方を持つようになったのだ。
 だから、最初こそ、ドッペルゲンガーの話を聞いた時、
「ジキル博士とハイド氏」
 の話を思い出したが、すぐに否定した。
 ただ、思い出したというのは事実であり、それそれを全く違う趣旨の話だとして考えていると、次第に面白さが感じられたのだった。
 そんなドッペルゲンガーとは別に、もう一つ、気になっていたのが、
「デジャブー」
 という現象であった。
 これは、
「初めて来たはずの場所で、以前にも一度は来たことがあったように思う」
 というような話のことである。
「既視感」
 という言葉でも表されるが、なぜ、そういう現象が起こるのか、言われていることはいくつかあるようだが、秀郷が考えているのは、
「辻褄合わせ」
 ではないかということであった。
 これを口で説明するのは難しいのだが、一度も来たことがないところであっても、以前に、どこかで絵や写真で見た光景が、あたかも、実際に見たかのような感覚となり、それが記憶の中で交錯し、一種の錯覚を見せるのではないかということである。
 そのままにしておけば、自分でどうして、そういう感覚になったのかということを説明できず、納得できないので、いろいろ考えた挙句、
「以前に見たことがあったんだ」
 という既視感で、納得させようとする。
 一番安直な納得のさせ方なのかも知れないが、一番、納得のいくことなのかも知れないとも思うのだ。
 つまり、何をどう考えるのか、そのことが大切であり、物の見方が角度によって変わってくるということを思い知らされたような気がする。
 秀郷は、小学生の頃から絵を描くのが好きだった。
 ただ、小学生の頃は、どうしても、上手になれず、
「絵が下手なくせに、どうして描くのが好きなんだろう?」
 と思っていた。
 立体を平面で掻くと、自分の中では、地面に平行だと思っていることでも、絵や写真になると、角度がついている。それを全体的なビジョンで見てしまうと、本当は角度がついているのに、錯覚に惑わされて、どうしても、地面に平行だと思うことから、平行にしか描けない。
 そうなると、最初のとっかかりのバランスが悪いと、そのまま悪いままのバランスになり、小さく書かなければいけないところを大きく描いてしまい、後から描く部分が、尻すぼみになってしまい、バランスが全然取れていない絵ができあがる。
 当然、遠近感もメチャクチャで、立体的に描けていないということになり、何を描いているのか、最終的に訳が分からない状態になってしまう。
 小学生の時はそんな絵しか描けなかった。
 ただ、
「マンガタッチでという見方をすれば、見れないこともない」
 という人がいて、その人おおかげで、お絵描きが嫌いにはならなかった。
 もしその言葉がなかったら、絵というもの全体にトラウマができ、絵を描くどころか、見ることさえもできなくなっていたかも知れない。
 中学に入ってからは、急に何かに目覚めたのか、
「絵は、バランス感覚と、遠近感だ」
 ということが分かってくると、最初は点でしか見ていなかったものが、次第に全体を見るようになる。そうなると、
「二次元の錯覚」
 というものがなくなり、地面と平行であっても、平面に描いているという意識で見ると、素直に、斜めの線が見えてきたのだ。
 そのおかげで、絵を描くことの面白さを垣間見ることができて、上手かどうかわからないが、自分で納得できる絵が描けるようになったのだ。
「俺はこの時のために、あの時、絵を諦めないと思ったのだろうか?」
 と思うと、それこそ、
「予知能力ではないか?」
 と感じた。
 すると、デジャブというのも、ひょっとすると、過去に、
「未来に、予知能力だと思うことで、自分を納得させるためのものではないか?」
 と思い。それがデジャブだとすると、
「デジャブと、予知能力は、あながち関係のないことではないような気がする」
 と言えるだろう。

                 永遠のテーマ

 自殺を考えるようになってから、
「死」
 という以外のことが頭を掠めてしまう。
 前章のように、夢であったり、予知能力であったり、超能力的な発想であたりなど、頭の中で、考えが走馬灯のようによぎるのだった。
 ただ、それは同じところを堂々巡りしているような感覚なのだが、一周してくると、また同じところに戻ってきたという気がしない。
 本当は同じところなのだが、時間という、全体的なものがずれているので、同じところに戻っているとしても、それは、逆に後ろに下がっていることではないかと感じさせるのだった。
 それは、まるで、電車の中で飛び上がった時の、
「慣性の法則」
 とは、逆の発想なのかも知れない。
 そんな事象は、この世の中では起きえないにも関わらず、発想として浮かんできているということは、
「考え事をしている自分は、いつも同じところには決していることはない」
 という証拠なのではないかと思うのだった。
 この場合の、
「決して」
 という言葉は、
「必ず」
 という言葉よりも、どちらかといえば、
「無理することなく」
 ということだと思う。
 つまり、難しいと思える言葉であっても、やわらかく感じることで、柔軟に思えるようになると、その発想が安心感に繋がり、自分を否定的に考えることも、肯定できるのではないかと思えるのだった。
 そういう意味で、
「死」
 という言葉も、どこか人生の末路であり、ネガティブな発想でしかないと思うと、
「考えたくない」
 ということに結びついてくるのだが、生まれることと同じで、人間は、死というものから逃れることはできない。
作品名:生と死の狭間 作家名:森本晃次