生と死の狭間
という認識を与えるのではないだろうか?
それを思うことが、自分にとってどういうことなのか、考えようとしない。考えてしまうと、せっかくの第六感が、自分に備わっていることを納得しなければいけない。そんな納得したくないという思いが、人間の中に潜んでいるのではないだろうか?
例えば、痛みを感じる時、そう、注射を打たれる時という意識で考えてみよう。
医者が、腕まくりをして、肩をさすったその時から、アルコールで打つ場所を消毒する時に、すでに、痛みがどれくらいのものなのかということを、ハッキリと認識しているという人がどれだけいるだろう。
きっと、ほとんどの人がそうではないかと思うのだ。
注射の針がチクッと肌に刺さり、次第に、沁みてきた状態が痛みを誘う。
「注射というのは、痛みの中でも、段階を追う痛みを感じさせるものだ」
という意識を持っている。
その痛みが、独特であればあるほど、その痛みの記憶は残っているものだ。
普段は、忘れていても、その恐怖が現実として迫ってくると、自分の中で心の準備をさせようと、痛みという感覚を、その瞬間が近づくにつれて、リアルさを増してくる。
そして刺さった瞬間に、そのレベルが、まったく同じにシンクロすると、痛みというものは、
「錯覚に変わってくれるのではないだろうか?」
と感じるような気がするのだ。
それが、痛みなどの触覚だけではなく、味覚や聴覚のような他の感覚と結びつくことで、感じることで、得られるショックや衝撃を、少しでも和らげてくれようとする感覚を、動物は持っている。それを、第六感というのであれば、
「予知能力のようなものだ」
という感覚になったとしても、それは無理のないことであろう。
そんなことを考えていると、
「錯覚というのも、五感と似たようなものではないか?」
と考えるようになった。
錯覚というのは、考え方として、
「勘違いのようなものだ」
と言えるかも知れない。
ということは、錯覚というのは、本当のことではなく、幻や蜃気楼の類だと思うようになってくる、しかし、そうではなく、錯覚だと思っていることが、実際には存在していることなのかも知れないと感じることもできるだろう。
夢の世界から見れば、今実際の世界で起こっていることも、
「幻だったり、勘違いではないか?」
と思っているかも知れないと思うと、今本当のことだと思っていることが、夢の世界での錯覚なのかも知れないと感じるであろう。
人間はいや、動物全般に言えることなのかも知れないが、
「目の前で見えていることだけが、真実だ」
と思っているのかも知れないが、それは、そう思うことで、自分が納得できることを感じたいからなのかも知れない。
それを思うと、何が幻なのか、本当に分からなくなってくる。そのいい例が、逃げ水などと呼ばれる、蜃気楼なのだろう。
これらは、過去の科学者によって、その理屈が究明され、
「幻が幻ではなくなった」
と言えるであろう。
しかし、この理屈は、不可解な現象を、恐ろしいと感じなくするためには、功を奏しているのかも知れないが、果たして、自分の中で納得するという意味で、功を奏していると言えるのだろうか?
それらのことは、人によって教えられるものではなく、自分自身で感じないといけないことで、それを納得できずに感じてしまうことは、結局、最初に、
「恐怖は恐怖なんだ」
と感じなかったことで、予期せぬ恐怖が発生した時、納得できていなかったことから、却って恐怖を煽ることになってしまうだろう。
そういう意味で、感受性の幅を、もっと広げる必要があるのではないか? と思うようになったのだ。
感じ性というのも、ある意味で、五感に近いものではないだろうか? この時の、
「感」
というのは、五感すべてを差すものであって、それを受け止めるだけの感性をどれだけ自分が持てるかということだ。
だから、その幅が広がることで、自分が物事を納得できる幅も広がるというもので、その納得が増えれば増えるほど、予知能力のような第六感が働くようになり、恐怖や、痛みへの、
「心の備え」
ができあがっていくというものではないだろうか?
夢というものが、その手助けをするものであり、錯覚を錯覚として見せないことで、自分が納得できるのだとすれば、それはもう、錯覚ではなく、
「第六感ともいえる、納得させるための、予知能力なのではないだろうか?」
と言えるだろう。
予知能力というものも、第六感と呼ばれるものも、一種の超能力と呼ばれるものに似ているのではないか。
予知能力はm実際に超能力という認識があり、他の人に分からない自分や、そのまわりの将来が分かるというもので、世界全体が分かってしまうと、どこか胡散臭いと言われても仕方がないが、自分とそのまわりくらいが分かるのであれば、それは、信憑性の高いものだと言えるのではないか。
うがった考えをするとすれば、
「小規模な超能力は、誰も苦しめることはないが、世の中を揺るがすような予言は、そのほとんどに信憑性がなく、最期には、詐欺呼ばわりされるものではないか?」
ということになるであろう。
「夢の世界ということで終わらせていれば、これほど平和なことはない」
と言えるようなことも、解釈を間違えてしまうと、まわりを巻き込んでしまったりして、収拾のつかないことになってしまうのではないだろうか?
「一長一短があるのが、夢というものではないだろうか?」
と、最近考えるようになったのだ。
そんな予知能力のようなものを、
「誰もが持っているのではないか?」
と感じたのは、
「ドッペルゲンガー」
という言葉を聞いた時だった。
ドッペルゲンガーという言葉、どこで、何がきっかけで聞いたのか、実は覚えていない。なぜか、頭の中に入っていて、知り合いとの会話の中で出てきたことから、話題になって、その友達から、ドッペルゲンガーの何たるかということを教えてもらったのだった。
ドッペルゲンガーというのは、
「もう一人の自分」
というような意味のようだ。
「世の中には、自分に似た人が三人はいる」
といわれる、ソックリさんではないようだ。
要するに、
「同一次元において、同じ時間に、もう一人の自分が存在している」
というものであった。
最初にそれを聞いた時、
「夢の中の自分なのか?」
と、感じたが、それもおかしい。
どうしてそういう発想を持ったのかというと、
「夢と現実の狭間で一人の自分が彷徨っているのか?」
とも思ったが、そうでもない気がした。
それよりも、以前、友達から教えてもらって、興味を持って調べた話に近いものを感じたのだ。
その友達というのは、やはり、ドッペルゲンガーというのを教えてくれたその友達で、
「俺にとって、どこまで言っても、自分の助けになるやつなんだろうな。最初は腐れ縁なのかって思っていたけど、そんなこと言っちゃあ、失礼だよな」
と思えるようなやつだった。
彼が教えてくれて、興味を持った話というのは、
「ジキル博士とハイド氏」
という話だった。