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生と死の狭間

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「大学に入れば、友達をたくさん作って、恋愛もして、今その大学に入るために、苦労はしているが、入学してしまえば、天国が待っているんだ」
 と思っていたのだ。
 大学にさえ合格できれば、放っておいても、広がっている天国にのっかることができるという思いで、必死に勉強した。
 いや、苦しい勉強に耐えるための理由が自分の中でほしかっただけなのだろう。
 自分に言い聞かせて、何とかごまかしながらでも勉強しなければ、大学に入学するなどということができるはずもない。
 大学というところは、
「入学してしまえば、こっちのものだ」
 と、先輩が言っていた。
「アメリカとかは、入学しても卒業するまでが難しい」
 ということらしいが、日本の場合は圧倒的に、入学が難しいのだ。
 だから、学歴社会なのだろう。
「どこの大学出身だ」
 ということの方が、大学での成績よりも優先するということだろう。
 昔は、卒業大学による、学閥というものが存在したらしい。
「この企業は、学閥があるから、数人はこの大学から学閥枠のようなもので、入学することができる」
 というものだ。
 それだけ大学のネームバリューは大きなもので、
「大学入学の時点で、すでに就活に影響を与えている」
 と思っている人もいるようだ。
 そういえば、子供の頃に言われたことがあった。
「いい高校に入って、いい大学に入学さえできれば、いい会社に入ることだってできるんだ。だから、子供のうちから、勉強をしておくのが大切なんだ」
 と誰からだったか言われた。
 子供心に、
「そんな時代遅れな」
 と思ったものだが、そんなことをしばらく忘れていたのだった。
 だが、それを大学時代に思い出した。そのことを思い出すと、時間というものに対していろいろと考えるようになった。
 そして、子供の頃のいろいろな記憶がよみがえってくる。しかも、その記憶は、どこか時系列に沿っている気がした。
 時系列に沿っていると感じたのは、次に思い出すことが、前に思い出したことの続きのように思えるからだった。まるで、
「一度見た夢が、途中で途切れて、もう一度見たいと思っていた夢を、その続きから見れる」
 というような不思議な感覚だった。
 他の人はどうか分からないが、自分の中で、
「途中で途切れた夢の続きは、どんなに見たいと思ったとしても、見ることはできないのだ」
 という感覚である。
 しかも、
「夢というものは、ずっと見ていたいと思っている夢に限って、ちょうどのところで眼が覚めてしまうものだ」
 と感じていた。
 だからこそ、夢の続きは決して見ることができないと思うのであって、
「それが人生なのではないか?」
 と、まるで、夢を人生の縮図のように感じるのだった。
 そういえば、
「夢というのは、どんなに長い夢であっても、目が覚める寸前の、数秒間で見るものである」
 という話を聞いたことがあった。
 その話を聞いた時、
「ああ、なるほど、その通りだな」
 と感心したものだった。
 言われてみれば、ちょうどのところで眼が覚めてしまったことで、その続きを見ようと、必死で寝ようとするのだが、今度はなかなか寝付けない。もし、眠れたとしても、続きの夢を見ようとしても、続きの夢どころか、夢というのを見たことがなかったのだ。
 そんな時、秀郷は考えた。
「夢って、見れる時の方が珍しい気がするんだけど、ひょっとすると、いつも見ているものではないか?」
 という思いであった。
「いつも目が覚めるにしたがって、忘れていくものであり、覚えている方が珍しいのではないだろうか?」
 という感覚だった。
 だから、夢というものは、目が覚める寸前の、まるで
「ロウソクの炎が消える寸前」
 のような漢字で、記憶に残らないものなのではないだろうか?
 いや、夢というものを、覚えていたくないという意識が働いているのかも知れない。夢は夢であり、しょせんは現実ではないのだ。夢がリアルであればあるほど、すべてを現実だと思うか、夢であると思うか、自分でも分からなくなり、そのうちに、
「どちらかを否定しないといけない」
 と思うようになる。
 だから、必死で夢を否定しようとするのではないだろうか? そうしないと、現実の方を否定してしまう自分を感じるからである。
 そんなことを考えると、ハッと我に返ってしまう。
「また、俺は夢の世界に引きずりこまれてしまったんだな」
 という思いである。
 実際に、起きている時と寝ている時、夢と現実が交互にやってくる。そのうちに、
「どちらが本当の自分なんだ?」
 と考えるようになると、考えなくてもいいことに、引きずり込まれ、それが夢の世界だと思い込んでしまう。
「ということは、夢の世界だと思っていたことは、本当は夢の世界ではないのかも知れない。それは、一体どこの世界なのだろう?」
 と哲学的なことを考えさせられる。
 夢というものには、人間が感じる、
「五感」
 というものがあまり感じられないと思っている。
「視覚、味覚、触覚、嗅覚、聴覚」
 と呼ばれるものだ。
 その中で、味覚と触覚と嗅覚は、
「言われてみれば、感じたことがないような気がする」
 と感じられる、
 確かに、おいしかったという記憶はあるが、
「どんな味だったのか?」
 と聞かれて、分かるものでもない。
 触覚にしても、何かに触れたと思ったり、痛いと感じたとしても、感じたという思いが残っているが、どんな痛みだったのか、思い出そうとすると分からない、
 つまりは、普段、起きている時の生活の中で、
「こういう状況の時には、痛いと感じる。あるいは、こういうものを食べると、おいしいと感じるという思いが、感じようとした時にはすでに意識の中から消えているということなのではないか?」
 ということであった。
 つまり、前述のように、夢の中で感じることは、時系列や普段感じている時間とは、感性のようなものがまったく違っているのではないかということだ。
 もっといえば、
「普段から、臭いであったり、味であったり、痛みなどというものは、それまでの経験から、記憶の中にあるものが、出てきているだけではないか?」
 ということである。
「感じるということには順序があり、まずそれを見た時に直感で、どういうものなのかということを感じたことで、その感覚を自分の中で最初に形成してしまう。だから、実際に感じた時、その時に感じたと感じるのだ。それだけ、感覚に差がないということであり、それらが一瞬のうちに頭の中で巡ってしまうことなのだからであろう」
 と考える。
 だから、最初の一回ですべてを理解していて、その思いがあるから、痛いと思うことでも、これを食べれば、辛いと思うことでも、事前に心の準備ができるというものだ。
 それが、いわゆる第六感というもので、人によっては、予知能力として、特別なものだと思っているだろう。
 いや、人によってというよりも、ほとんどの人が第六感を、ヤマ勘のような、予知能力的なものだと思っているが、それは実際に自分の中にあるもので、それがまるで夢の世界とを混同させている感覚になることで、第六感が、
「特殊な人間だけにあるもの」
作品名:生と死の狭間 作家名:森本晃次