生と死の狭間
だが、中学に入って、校区が少し変わってくると、他の小学校にいた連中が、中学では同じになることも多かった。別の小学校にいた連中の方が、意外と名前が難しかったりするもので、またしても、その頃になって、新たに覚えなければならない名前が増えたことで、急に、
「覚えなければいけない漢字が急に増えてきた」
と感じたのだ。
しかし、
「それが友達の名前から来ている感覚だ」
と感じなくなってきていたので。急に中学に入ってから、漢字を難しく考えるようになるとは、思ってもみなかったのだ。
それだけ、そんな中で、面白いと思ったのは、
「自分と同じように、歴史上の人物をなぞらえて、名前が付けられている人が多いのではないか?」
と感じたことだった。
自分のことを棚に上げて、
「歴史上の人物をなぞらえるなんて、安直だ」
と考えたほどで、例を挙げると、
「元親」
や、
「政宗」
などという、どうしても、戦国武将のような、勇ましい名前が多かったのだ。
ただ、さすがに、自分のように、苗字にあやかって、名前を付けるということで、同姓同名の名前にまでする人はいなかった。きっと、恐れ多いという感覚になるのではないだろうか?
考えてみれば、
「藤原秀郷」
という名前、いくら藤原姓が珍しくない名前だからと言って、同姓同名にするというのは、かなりの度胸がいることではないだろうか?
そんなことを考えていると、
「実際に、今の時代、歴史上の人物にこだわることなく、同姓同名の人って、時代をまたいだとすれば結構いるのではないだろうか?」
と感じた。
しかし、時代とともに、名前の傾向は違ってくるので、ある程度の時代が流れれば、その可能性は低くなるものだろうと感じた。
ただ、幼名があって元服し、名前が長くなっていくというイメージは、平安末期からある印象がある。特に顕著なのは、平家物語あたりから出てくるのではないだろうか?
いわゆる、
「源平合戦」
と言われる、
「治承・寿永の乱」
の頃の話である。
ちなみに、昔は源平合戦という言い方が一般的であったが、基本的に、以仁王による源氏の挙兵から、壇ノ浦での平家滅亡までの合戦をいうのであるが、これは、すべてが、
「源氏と平家の戦い」
というわけではない。
途中で木曽義仲の台頭によって、同じ源氏でも、鎌倉軍が義仲軍を打ち破るという、いわゆる源氏同士の戦いもあったことから、源平合戦という表現はおかしいということになり、当時の年号から、
「治承・寿永の乱」
と呼ばれるようになったのだった。
この時代になると、官位での呼び方であったり、元服してからも、幼名を呼び合うというようなことが多かったという。やはり、平安時代の国風文化の発展から、物語が書かれる場合に、セリフなど、忠実に描かれていたということなのだろうか?
例えば、源頼朝などのように、官位で呼ぶ場合、頼朝を、
「すけ殿」
という呼び方をしたり、前述の義経も、
「判官殿」
と呼ばれることもあったが、実は一般的には、
「九郎殿」
が多く、直属の家人からは、
「御曹司」
と呼ばれていた。
さらに、木曽義仲の息子の義高は、清水冠者という別名があったので、
「冠者殿」
とも呼ばれていたという。
また、坂東武者などは、ほとんど皆と言っていいほど、幼名をそのまま呼んでいる。
2代目執権の北条義時と、
梶原景時を、
「平蔵」
と読んだりしていた。
だが、同じ時代の平家一門に対しては、そのような呼び方をすることはない。これは、やはり、田舎である坂東と、政治文化の中心である、平安京との間の土地の違いと考えるか、それとも、平安京を神聖な場所と捉え、貴族文化として、幼名で呼び合うようなことは、
「いかにも田舎者」
というような感覚での呼び方になるのではないかということになるのではないだろうか?
かと思えば、当時は平民では、苗字を名乗ることも許されなかった時代である。実に面白いともいえよう。
もっとも、幼名があって、成人名があるという風習は、当時の日本の平均寿命が短かったというのも、一つの理由である。
医療技術が発達していなかったことで、幼少のうちに死んでしまったり、あるいは、義高のように、父親が討伐されたことで、人質として送られた息子が殺されるなどの例もあり、特に戦国時代などは、日常茶飯事だったことなので、余計に、元服というのが、貴重な時代でもあった。
だから、当時の元服は若いうちに行われた。しかも、今の法律のように、年齢がいくつからというのは決まっているわけではなく、その家庭の事情などで、大体、12歳から16歳くらいまでの間に行われていたようだ。
その時に、幼名に、通称がついてきて、
「頼朝」
などと言った名前を名乗るようになるのである。
前述の幼名は、別に平安京の人間にはなかったわけではなく、通常そういう呼び方をしていなかっただけではないだろうか?
とにかく、名前というのは、実に面白いものだということになるのではないだろうか?
予知能力
藤原秀郷が、自殺を考えるようになったのは、いつ頃からだっただろう?
高校を卒業して、大学に入学してから一年半くらいが経った。その期間、高校三年間と比べると、想像していたよりも長かったような気がする。
ただ、いろいろ考えるところもあった。
高校三年間というの、自分は何をしたというのだろう? 受験勉強に明け暮れていた時期が三年生の頃、それは自分だけでなく、まわりが皆そうだったから、自然とそういう形になったのだが、一番高校生らしかったというと、いつだったのだろう? そもそも、高校生らしいというのが何なのか、高校時代に考えたこともなかった。
ただ、
「時間は腐るほどある」
と思っていた。
実際にそんなことを思っていると、一日一日というのは確かに、結構長かったような気がしたが、それが、1週間、1カ月と、時間を重ねていくと、想像以上にあっという間だった気がした。
そもそも、一日を長く感じた時点で、
「1週間は長いものだ」
という先入観があるのは当たり前で、そうなると、長さを意識していなければ、終わってみれば、長いと思っていた分、気が付けばあっという間だというのは、当たり前のことなのかも知れない。
これは、大学に入ってから感じる時間というものが、まったく正反対だと感じたことから始まったことだと言ってもいい。
大学に入ってからの一年間は、一日一日は、あっという間だった。
気が付いてみれば、
「ついこの間だったよな。大学に入学したのは」
と思うようになっていた。
最初は、高校時代と感覚が逆だなどということに気づきもしなかった。確かに、高校時代と大学に入ってからというのは、自分という人間が変わったわけでもないのに、まったく違う人間の中にいるような気がして、自分でも分からなくなっていた。いつだったか、高校時代を懐かしく思い、その頃のことを思い出そうとしたことがあったのだ。
するとどうだろう? 思い出らしいものは一つもなかった。ただ、