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生と死の狭間

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 ただ、それはここ数年のことであり、父親が生まれた頃に、どれほどその名の知名度があったのかというと、正直、地元民か、歴史好きの人くらいにしか知られてはいないだろう。
 歴史ドラマや歴史小説に、この時代の人物として、それほど載っているわけではない。それこそ、
「義経ゆかりの」
 ということで知られる程度ではないだろうか?
 奥州平泉が、世界遺産に登録されると聞いた時、父親の喜びようといえばなかった。
 それまで、あまり自分の功績によることでなければ、喜びを表現することはなかったので、この時も、
「ただ、親が名前を平泉ゆかりでつけただけだ」
 と言って、白けていたに違いないと思っていたのだが、その時ばかりは、信じられないほどの喜び方だったのだ。
 そもそも、
「こんなことで喜ぶことなどないだろう」
 と思っていただけに、その意外さにビックリさせられたのだ。
「お父さんがこれほど、自分の名前を意識していたなんて」
 と感じさせられた。
 そのため、それまで名前というものを、
「ただ、自分を認識させるだけの区別のようなものでしかないんだ」
 と思っていたものが、急に、もっと親近感のあるものに感じられ、
「俺の、秀郷という名前も、いずれ何かの拍子に有名になるかも知れないな」
 と思った。
 そして、その時は父親がそうしたように、
「喜んで見せるかな?」
 と思ったのだ。
 だが、秀郷は父親よりも、
「自分の所業」
 ということに対しての思い入れが強いので、心の中で、
「どうせ、そんなことはないだろうがな」
 と感じていたのも事実で、ただ、親子二代で、
「歴史好き」
 ということと、
「お互いに親のつけた名前に対して、恨みは感じていない」
 ということでは、同じであると考えたのだった。
「秀郷、つまり、俵藤太は、将門を討ち取ったということと、百足退治という二つの武功があるのに対し、秀衡には、武功という意味ではほとんど、何も残っていない。ただ、奥州平泉を作りあげたという意味で、有名になっている」
 ということでは、自分の中で。
「名前はそれほど売れていないが、実績としては、秀郷の方が強い」
 と考えた。
「これは、俺たち親子の関係に、似ているところがあるのではないだろうか?」
 と感じた。
 それは、所業という意味よりも、性格的にという意味であり、父親がどう感じているのかまでは分からないが、少なくとも、息子の方は、そういう意思が大きいのだと思っているのだった。
「名は体を表す」
 というが、自然とその名にふさわしい大人になるように、父親が教育をしたのか、それとも、秀郷自身が、そうなるような運命を持っていたということなのか、本人は、後者だと思いたかったのだ。
 この名前を頂いているという宿命なのか、中学時代から、あだ名で、
「藤太」
 と呼ばれるようになった。
 知らない人が聞けば、まるで、外国人の、セカンドネームのような感覚で、武将などが諱としている、
「三郎」
 であったり、
「平九郎」
 などのようなものだと思うのではないだろうか?
 ただ、通称としての別名として、
「俵藤太」
 の下の名前なので、半分は間違っていないと言ってもいいだろう。
 ただ、皮肉なことに、幼名がなんと呼ばれていたのかということは、あまり知られていないようだ。要するに幼少の頃のことは、あまり詳しく分かっているわけではないようだ。その証拠に、
「生年は不祥」
 とされているようだ。
 ただ、分かっているのは、平将門を討ち取ったその時点で、かなりの高齢であるということくらいだろう。
 そのわりには、残っている伝説や史実として、
「百足退治」
 であったり、
「将門討伐」
 だということのように、これ以上ないというくらいに目立っているにも関わらず、分からないことが、さらに多いというのも珍しいだろう。
 しかも、藤原秀郷という名前よりも、
「俵藤太」
 と言った方が、歴史をあまり知らない人にもピンとくるようである。
 義経のように、成人してからの平家討伐が有名ではあるが、幼名の頃のそれぞれに、伝説が残っているというのも珍しい。
 清盛に命を助けられた時の幼名を、
「牛若」
 という。
 こちらは有名な、京都五条大橋において、武蔵坊弁慶の、
「千人斬り」
 の最期として立ち向かい、見事やっつけて、家来にした話。
 または、その次に名乗った名前として、遮那王というのがあるが、鞍馬で育てられている時に、
「天狗に武芸を教わった:
 という伝説も残っている。
 それぞれの名前の節目に、それぞれの伝説が残っているというのもすごいものだ。
 しかも、義経の場合は、その位が、判官ということだったということで、自分の運命を後の世代の人たちが、その位から、
「弱い者の味方をする」
 という日本人特有の考え方を、
「判官びいき」
 というが、それが、この義経からついた言葉だということで、
「一体。どれだけの逸話を残せばいいというのか?」
 と言ってもいいだろう。
 しかも、絶世の美男子であるかのように言われているが、残っている肖像画を見る限り、そんなに、イケメンという感じでもなかったりする。
 一つの真となる強さが、勝手に独り歩きをするのか、たくさんの伝説や逸話を持つというのは、その頃の政治勢力によっての、プロパガンダのようなものではないかと考えるのも、無理もないことなのかも知れない。
 藤原秀郷の場合は、そこまでの伝説はないが、立派な戦績や、逸話が残っていることから、もっと有名であってもいいだろう。
 何か、未来に残せない事情があったのではないだろうか?
 秀郷が、小学5年生くらいの頃だっただろうか?
「ひでさとって、なんか、難しい名前だよね?」
 と言われたことがあって、その時初めて、
「そうなんだ。難しいんだ」
 と感じたものだった。
 人の名前であれば、
「読みにくい名前だ」
 とばかりに、すぐに自分も指摘していたかも知れないが、小学生でも3年生くらいになると、
「名前くらい、漢字で書けるようにならないとね」
 と言われて、名前を漢字で書く練習をしたものだ。
 その時は、別に難しい字だという意識はなかった。小学3年生という頃だったから、まわりから、
「そうしなさい」
 と言われても、違和感を感じることもなく、漢字で書くことに抵抗もなかったのだ。
 勉強をして書けるようになると、
「他の人も、難しい漢字だと思わずに書けるに違いない」
 と勝手に思い込んでしまった。
 別に他の子供が、自分以外の人の名前が書けるように、人の名前の勉強をするわけではない。
 しかし、友達が漢字で書いてくると、自然と覚えてくるというもので、その時も別に意識をしているわけではない。つまり、
「小学3年生という年齢だからこそ、違和感なく覚えられたのだろう」
 と思うようになっていたのだった。
 もっとも、6年生くらいになると、同じ学校の生徒の名前くらいは書けるようになっていた。
作品名:生と死の狭間 作家名:森本晃次