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生と死の狭間

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 この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ちなみに世界情勢は、令和4年6月時点のものです。

                 俵藤太

 今年二十歳になる一人の青年、名前を藤原秀郷というのだが、彼は生まれた時の記憶のようなものが、実際におぼろげではあるが、残っているという。自分の顔を覗き込んで、本当に嬉しそうにしていた両親の顔が、逆光であるにも関わらず、見えた気がするというのだ。
 そもそも、藤原秀郷という名前は、妊娠8カ月の時に、性別を聞いた時、医者から、
「男の子です」
 と教えられた時、すでに、父親の中で考えていた名前だという。
 このような古臭い名前であるが、歴史が好きな人なら、聴いたことがあるはずだ。
 ただ、中には勘違いをして、
「映画を極めた奥州藤原氏の当主であり、源義経を育ての親である、
「藤原秀衡」
 と勘違いをしている人も多いことだろう。
 もちろん、まったく血が繋がっていないわけではなく、時代的には秀衡が生きていた時代よりも、秀郷の時代の方が、200年ほど前のことであった。
 つまり、この世に一緒に存在したわけではないということである、
 しかし、
「藤原秀郷」
 という名前にピンと来なくても、諱を聞くと、
「ああ、聴いたことがある」
 と思う人もいるだろう。
 その名前というのは、
「俵藤太」
 という名前である。
「どこかで聞いたことがある気がするんだけど、何をした人だったのだろう?」
 という程度かも知れないが、歴史上の功労者であり、都市伝説のようなものを持っている英雄だとも言える人物であった。
 まず、歴史上の功労者としては、
「平将門を討ち取った」
 ということで有名である。
 当時、坂東武者は、平安京の貴族たちから、迫害を受けていたが、土地を開拓することで、生業を得るようになっていた。
 そんな中で出てきたのが、平将門で、彼は慈悲深い人物で、自分のところに助けを求めてやってきた人たちを受け入れ、
「罪人を引き渡せ」
 という連中に歯向かってまで、助けを求めてきた人たちを助けた。
 それが人望へと変化し、次第に、主従関係が結ばれていき、清原一族の内乱を、朝廷から、
「朝廷にかかわりのないこと」
 ということで恩賞が得られなかったことに対して、従者の不満を解消するかのように、
「褒美はわしが与えてやる」
 ということから、従者は将門を、まるでみかどのように崇め奉った。
 それが、次第に、関八州を収めることで、
「いずれは、帝に」
 ということになり、将門は、関八州を収めることで、自らを、
「新皇」
 と呼ぶようになった。
 こうなると、平安京でも放ってはおけない。
「天皇に歯向かう、賊軍の将」
 ということになり、征伐軍が組織されることになるのだ。
 その時の中心だったのが、藤原秀郷だったのだ。
 藤原秀郷という名前でイメージのない人は、
「俵藤太」
 と言えば、ピンとくる人もいるかも知れない。
 歴史上において、この名前が知られているのは、
「平将門を討ち取った武将」
 ということである。
 確かに、
「自殺行為」
 と言えるほどの軍しか持ち合わせていなかった将門にとっては、どうしようもない兵力さではあったが、戦巧者であった将門に苦しめられながらも、討ち取ることができたということで、その功が色褪せることはなかっただろう。
 さらに、
「俵藤太」
 という名前は、
「百足退治」
 という話に出てくることにもなる。
 琵琶湖のそばの、瀬田の唐橋で、大蛇が横たわっていたが、その大蛇を踏みつけるほどの気概を見せた藤太を見込んだ大蛇は、人間に化けて、藤太に百足退治をお願いする。藤太は見事に百足を討ち取ったと言われている。
 ここでの、俵藤太と、藤原秀郷が同一人物なのかというのは、諸説あるのかも知れないが、少なくとも、
「平安時代中期の武将として、将門を討ち取り、百足を退治したということで有名な武将である」
 という伝説に変わりはないだろう。
 父親は歴史が好きだった。
 というのも、姓が藤原で、しかも、祖父が何を思ったのか、父に、秀衡という名前をつけたのだった。
 藤原秀衡というと、前述のように、奥州平泉において、栄華をほしいままにした大当主だったということで、その影響もあり、自分も歴史好きになった。
 しかも、藤原姓には、造詣が深く、
「子供の名前には、自分の名前から一字をつけたい」
 という思いがあったことから、結構早いうちから、
「秀郷」
 というのは考えていたようである。
 実際に藤原姓というのは、全国でも多い方である。メジャーな苗字だと言ってもいいのだろうが、それだけに、
「かつての有名武将から名前をもらっても、いいではないか」
 と思うようになっていたようだ。
 確かに、歴史上の人物の名前をつけて、同姓同名にするというのは、少し危険な気がするが、父親もそれほどまわりから名前のことで何かを言われたわけではない。
「秀衡なんて名前、古臭い」
 と言われた程度で、
「奥州藤原氏じゃあるまいし」
 といわれたことはなかったのだ。
 それだけ、歴史上の人物というのが、超有名でもない限り知られていないのだろう。だから、名前をディスられることはなかったのだ。
 そういう意味で、息子にも秀郷という名前を付けたのだ。
「俵藤太」
 といえば、ピンと来る人もいあるだろうが、秀郷と字だけで書くと、
「秀衡と間違えそうだ」
 と言われるほど、ネームバリューに関しては、秀衡の方が強いのだろう。
 ただそれは、
「義経の育ての親」
 という意味で伝わっていることが多く。歴史に中途半端に興味を持っている人は、秀衡というと、
「義経関係の人」
 という意識しかないのかも知れない。
 それでも、名前が通るだけ、祖父の眼力は間違っていなかったのだろう。
「名前だけは売れている」
 ということで、結構すぐに父親は名前を憶えられていたようだ。
「お父さんは、自分の名前に誇りを持っていたんだろうな?」
 と感じた。
 自分の名前も、歴史上に登場する数ある藤原姓の中でも、かなりマイナーだと思う、
「藤原秀衡」
 ですら、義経の存在がなければ、それほど知られるものではないだろうから、バカにされることもないだろう。
 そういう意味でも、奥州藤原氏の栄華を考えると、考えてみれば、奥州藤原氏の遺産は、数年前に、
「世界遺産」
 となったではないか。
 そういう意味で、奥州平泉を作り上げた第一の功労者としての、藤原秀衡の名前が有名なのは、当たり前のことであろう。
作品名:生と死の狭間 作家名:森本晃次