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生と死の狭間

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 結局は、そこに戻ってくるわけで、回り道はしたが、その間は、この感覚や感情に、
「慣れる」
 というために、準備期間であり、
「人間というもの、一度感じたことから、そう簡単に逃げることができず。一周まわって、もう一度同じところに戻ってくるのだ」
 そうなると、今度は鉄板である。
 慣れというものも備わって、覚悟をしなくとも、その慣れが、苦痛を感じさせないというような世界に連れていってくれる。
 そう思うと、死ぬことに対して、それほどの恐怖を感じなくなる。
「死ぬことが快感ではないか?」
 とまで、感じるようになるのではないだろうか?
 そんなことを感じていると、もう一つの感覚がよみがえってきた。
「人間は、生まれる時と、死ぬ時は、選ぶことができない」
 というものだ。
 前述の、
「人間は生まれながらにして平等だ」
 などというのは、まやかしの類だというような考えを示したが、まさにその通り、どこの家に生まれるかで、その時点で、すでに不公平であり。運命というものが本当にあるのだとすれば、その運命は、この世に生を受けた時点で決まっている。
 ただ、その運命は、
「本当に変えられないものなのか?」
 ということが大切なのであり、変えられないとすると、それに従うしかないわけで、運命がどのようなものか、自覚できないからこそ、運命を信じない人も多い。
 しかし、今自分が行っている行動が、運命なのか、それとも、運命など存在しないのかということは分からない。運命自体が証明できないのだから、当然のことだ。
 しかし、やはり、少なくとも、この世に生を受ける時というのは、運命であり、不公平なものなのだろう。
 死ぬ時は、運命が影響しているのだとすれば、やはり、最初から決まっていたことなのだろう。
 だが、死ぬことを自由に選べるかどうなのかというのは、結局は宗教的な教えであり、
「人を殺めてはいけない」
 というのが、自分であっても同じであるから自殺は許されないという考えだったとすれば、ガラシャの行動は、完全に矛盾している。
 そもそも、人は殺してはいけないのだ。彼女の行動は、他の人に自分を殺させたのだ。
 自分を殺すのも、殺人と同じだというのであれば、彼女の行動は、明らかな、殺人教唆ではないか。
 この場合の彼女の行動は自殺ではない。
「人に自分を殺させる」
 という、殺人教唆である。
 そうなると、
「自殺と、殺人教唆では、どちらが罪が重いというのだろう?」
 と言える。
 普通に考えれば、自殺の方が軽いだろう。なぜなら、殺人教唆は、実行犯がいて、その人は本当は嫌なのに、上司の命令に逆らうことができないので、嫌々やっているわけだ。
「人を殺した人間は、地獄にしかいけない」
 というのであれば、戦国時代や、帝国主義の世界大戦などの時代には、地獄に人が溢れていたことだろう。
 何しろ殺し合いなのだ。
 一人の人間が、何人を殺したというのか、そんなことをしていれば、ほぼどちらも全滅状態で、最期には、どちらかが戦闘不可能に陥って、降伏するか、それとも、全員が死ぬまで戦うかのどちらかだ。
 そこに、妥協は許されず、時代としては、
「敵前逃亡は、銃殺刑」
 となっていた時代である。
 そんな中にはキリスト教信者もかなりいただろう。
 それでも、戦争において、人を殺すということには、次第に慣れていくという。血や、肉体が飛び散ったような戦場を見ても、
「別に何とも思わない」
 という、慣れることで、自分を肯定し、さらには、自分を殺人鬼に仕上げるに十分な心境を作り出すことになるのだろう。
 確かに人間は、生まれることを選べない。そして死ぬことも選んではいけないのかも知れないが、じゃあ、最初と終わりは選べないのだとすれば、
「生きている間は自由なのか?」
 と言えば、そんなこともない。
 人類すべてが平等であって、そこから、自由が生まれているのであれば、本当に自由なのだろうが、もっとも、そんな自由を想像することは不可能だ。
 生まれる時が、最初から不公平なのだがら、生きている間、皆平等などという理屈は成り立たない。
 そもそも、このような貧富の差であったり、人間関係としての、上下関係はどこから生まれたというのだろう?
 人間関係というものは、古代に行くほど、ひどい者だった。
 有史以前より、奴隷制度のようなものがあり、それが当たり前の時代だった。
 それは、聖書の中での、モーゼによる奴隷解放から始まり、キリスト教の発想が生まれたのかも知れないが、あれだって、ヘブライやユダヤの人々、つまり、キリスト教圏内の民衆だけに言われていることではないか。
 エジプトのファラオの支配の中には、同胞のエジプト人だって、奴隷にされていたに違いない。
 それなのに、救われるのは、ユダヤの民だけだ。
 エジプトでは、ユダヤの民である奴隷がいなくなれば、奴隷制がなくなるわけではない。
「ユダヤがダメなら、他から連れてくればいい」
 というわけで、他の国を占領し、大量の奴隷を作ることになる。
 キリスト教は、そんな他民族のことは関係ない。
 モーゼだって、
「奴隷解放の英雄」
 に祭り上げられているが、モーゼがいなければ、エジプトから侵略を受けることもなく、奴隷にされることもなかったのだ。
 彼らは、それが
「モーゼの仕業だ」
 とは言う事実を知らないかも知れないが、きっと、
「誰かが余計なことをしたから、こんな目に遭っているのだ」
 と思っていたのかも知れない。
 それにしても、
「モーゼの十戒」
 というのも、いい加減なものだ。
 いきなり、
「人を殺めてはいけない」
 と出ているではないか。
 人を殺めないで、生きていけるわけはない。ただ、それは、
「人間が人減の意思で殺めてはいけないということで、神は許されるのだ」
 と言える。
聖書の中で、神は何度この世を滅ぼしていることか、大規模小規模含めてである。小規模というのは、局地的という意味である。
「ノアの箱舟」、
 あるいは、
「ソドムとゴモラ」
 しかりである。
 さらに、神は、人間に、生贄を求めてもいるではないか。最終的には、
「人間の覚悟を試す」
 ということで、事なきを得たのだが、これだって、神が人間を試した。
 つまり、
「人間の心をもてあそんだ」
 と言えるのではないだろうか?
 そんなことを考えていると、
「一体、神様というのは、何様なんだ」
 と考えてしまう。
 そもそも、神様というのは、そういう存在なのだから、そう思ってしかるべきなのに、人間というものを顧みた時、神の存在がどのような影響を与えるのかと思うと、決して気持ちのいい感覚ではない。
 自殺菌のようなものは、ひょっとすると、これだけの歴史がある中で、とんでもなく偉い哲学者の先生などがこれだけいたのだから、考えている人もいたに違いない。
 しかし。その研究は、ほとんど聞かれることもない。
 都市伝説としても、聞かれることはないのだ。
 ということは、
「考えた人はいたとしても、研究するにしたがって、その考えが先に進むものではなく、考えることを辞めた人が多かったということなのか?」
 それとも、
作品名:生と死の狭間 作家名:森本晃次