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生と死の狭間

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「大人と子供の間には、明らかな結界があると思っていたが、それが交わったはずの線の交差を意識できなかったことで、最期は自分がどこを向いているのか分からなくなってしまうのではないだろうか?」
 ということであった。
 そんな時、人生の中にあるたくさんの交差点に対し、秀郷は、一つの答えを見つけた気がした。
 その答えがすべての答えだとは思わないが、一つの結論に結びつけてくれるような気がした。
 その問題と答えは、問題としては、交わることのない平行線であり、それが交わった時に何が起こるかということを考えた答えが、
「孤独というものではないか?」
 と感じることであった。
 孤独というものが、自分にとって何なのかということを考えると、
「子供と大人の間にある結界を、孤独というものが、こじ開けてくれることになるのではないか?」
 と感じるのだった。

                 自殺菌の正体

 二十歳になって、急に自殺を考えるようになった。
 それまでは自殺など、まったく考えたことがなかったのに、なぜか考えるようになった。「なぜ自殺しようと思ったのか?」
 と考えてみたが、その理由が思い浮かばない。
 確かに、自殺をする理由は分からないが、
「理由が分からないからと言って、自殺を考えてはいけないというのか?」
 ということを考えた。
 そもそも、自殺が悪いことだと考えるから、自殺を考えること自体が悪いと思うのであった。
 じゃあ、どうして、
「自殺をしてはいけない?」
 と考えるのか?
 人に聞くといろいろな答えが返ってくるだろうが、究極は、最終的に同じところに落ち着くだろう。
「親からもらった大切な命を、簡単に捨ててはいけない」
 あるいは、
「生きていれば、そのうちにいいことがある」
 などと言われるが、しょせん、そのどちらかも、胸を打つものではない。
 むしろ、そんなことを言われると、無性に腹が立つのではないだろうか?
 本人だって、本当は死にたくないはずだ。それなのに、死を選ぶということは、選ぶまでに葛藤をして、死を覚悟しているから、自殺を考えているのだ。
 それは、
「永遠に続くであろう、苦痛から逃れるためのものだ」
 と思っている人間に、
「親からもらった命」
 などというきれいごとを言われても、
「その親が何とかしてくれるわけではないだろう?」
 と言いたいのだ。
 そして、
「生きていれば、そのうちにいいことがある」
 だぁ?
 それこそ、ムカついてくる言葉である。
「そのうちっていつなんだよ?」
 と言いたいし、
「いいことって、具体的にどういうことなんだよ? そんなものがあれば、最初から自殺なんて思わないさ」
 と言いたいのだ。
 人がよくいうセリフを言えばいいってもんじゃないわけで、だから、
「俺は人と同じでは嫌だ」
 と、秀郷は思っているのであって、そんな自分に対して、慰めのつもりなのか、冗談ではない。
 それらのセリフには悪意しか感じない。
「何様のつもりだっていうんだ」
 と言いたいのだ。
 死を覚悟している人間に、ある意味何を言っても同じなのだが、こんな、火に油をそそぐようなセリフしか言えないやつが、自分のまわりにはいないということなのだろうか?
 そんなことを思うと、情けないと感じる。
「そんなことを言っているお前たちだって、幸せの絶頂なのか? だったら、それを説明しろよ。何が幸せなのか、俺は分からないから、死ぬしかないと思っているんだ。だから、何が幸せなのか、教えられもしないくせに、説教たれてんじゃない」
 と思うのだった。
 そんな連中しかいない、この世を感じていると、
「やっぱり、死んだ方がマシなのかも知れないな」
 と思う。
 自殺というのは不思議なもので、一度考えてしまうと、抜けられなくなるもので、最期は自殺が正しいことのように思えてくるのではないだろうか?
「人は生まれながらにして、平等である」
 などと言っている人の言葉を思い出すのだが、前述のように、
「そんなものはただの理想でしかない」
 金持ちに生まれるか、貧乏人の家に生まれるかなど、決めることもできないし、親の性格が遺伝するのだから、それこそ、持って生まれた性格や運命は、そう簡単には変えられない。
 帰られるくらいなら、親の代で変わっていて、
「もう少しマシな家に生まれていてもよかったじゃないか?」
 と言いたい。
 確かに、自分の人生、人のせいにしてはいけないと言えるかも知れないが、逆に、親と正反対の性格になるかも知れない。
 それは、持って生まれた性格や運命を、受け入れるしかなく、成長してくる中で、明らかに自分とは違う性格の親のようにはなりたくないとして、本人は精いっぱいで、しかし、まわりが見て、ささやかな抵抗をしている要素を、さぞや、まわりと本人との間で、ギャップや矛盾が生じているのかも知れない。
 そんな状態になってまで、生きていると、最初は、そのギャップに苦しむ。
 人によっては、慣れてきて、
「俺はこんなものなんだ」
 と言って、諦めた人生を歩む人もいれば、
「こんな人生、お先真っ暗だ」
 と思って、自殺をする人もいるだろう。
 確かに、小学生の自殺というのは、あまり聞かないが、ないわけではない。
 そうなると、それくらいの年の子の自殺の理由は、ほぼ、自分のギャップに失望し、その感覚に慣れる前に、自らの命を断つという発想から来ているに違いない。
 だが、こんな考えもある。
「人間、一度自殺を考えてしまうと、それがいつになるかは分からないが、結果として、最期は自殺をするものではないだろうか?」
 というものである。
 ということは、逆に言えば、
「自殺という本懐を遂げることができた人は、自殺をしようとしたのが、この時が最初ではない」
 ということだ。
 自殺をしようとする人は、必ず以前にも同じ思いがあったということで、それだけ思い立った時にすぐに死ねるという人も珍しいのかも知れない。
 そう考えると、
「俺はいずれ、自分の手で、この人生を終わらせることになるんだ」
 という感覚が無意識にであろうが、持っているとして、次第にその違和感に慣れてきていると言ってもいいだろう。
 この考え方は、運命というものと密接に繋がっているように思える。
 逃げられないものが、運命というものにはあり、一度自殺を考え、計画をするか、実行に移すことができたのであれば、その感覚が忘れられず、自殺を違和感なく実行できるのだろう。
 つまりは、
「自殺をするということが、本人にとっては快感なのかも知れない」
 とも言えるだろう。
 感じ方は人それぞれ、自傷行為をする人間だっている。
 手首を切るのだって、本気で死ぬ気があるわけではなく、自分を傷つけて快感を得ているのかも知れない。
 いわゆる、
「マゾ」
 といってもいいのかも知れないが、それだけではないのかも知れない。
 そのまま死というものが、次第に視界が狭くなった状態で見ていると、狭まった先には、
「これで楽になれる」
 という思いだけが残っている。
 これは、一番最初に自殺を考えた時に、まず感じたことだ。
作品名:生と死の狭間 作家名:森本晃次