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生と死の狭間

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「今考えているような、こんな自殺菌の考え方は、何者かによって不利なものであり、それ以上考えないように、何かの見えない力が働いている」
 ということなのかも知れない。
 そんな考えは、前者であれば、人間の意思で、自殺菌という考え方を排除しているのだろうが、後者であれば、明らかに、外的要素によるものである。
「自殺を考えたことがある人が、この世に果たしてどれだけいるというのだろうか?」
 と考えた時、人によっては、
「ほとんどの人がいるんじゃない? 考えたことがない人の存在なんて、考えられない」
 という人もいるくらいだ。
 しかし、前述のような考えで、
「一度でも自殺を考えたことのある人は、最終的には自殺をしてしまう」
 ということであれば、人類は皆自殺だと言えるのではないだろうか?
 ただ、それまでに事故で死ぬ人は、自殺に至らなかっただけで、
「不慮の事故はしょうがない」
 ということであったり、時代によっては、戦争などのように、無理やり、殺し合いの場に引きずり出されたり、無差別爆撃を食らったりして、結果、自殺に至らない場合もある。
 では、自殺以外の人で、事故や事件に巻き込まれない場合は、基本的には、
「大往生」
 しかないではないか。
 大往生か、不慮の事故など以外での死というと、確かに自殺しか思い浮かばない。
 大往生の人も、実は自殺を、
「機会があれば」
 と無意識にだろうが、思っていたとしても、寿命というものが分からないだけに、
「結局、もたもたしているうちに、自殺する機会を失ってしまった」
 という人であろう。
 中にはものぐさな人がいて、
「自殺なんて、面倒臭い」
 と思っている人がいるとすれば、案外大往生まで行く人は、
「気が付けば、死んでいた」
 という人なのかも知れない。
「では、病気で死ぬ人は?」
 と考えた時、
「実は、これこそが自殺なのでは?」
 と考えられる。
 昔から言い伝えというか、ことわざとして、
「病は気から」
 というではないか。
 つまり、病気というのは、気持ちさえしっかりしていれば、いくら老いてきたとしても、不治の病にはかからないのではないか?
 ということであった。
 ただ、このような表現が、病気で死んでいった人に失礼なのは分かるのだが、話をフィクションとして聞いていただけるのであれば、問題ないと思っている。何しろこの考えは、あくまでも、主人公である、
「秀郷」
 が考えていることであり、他の人が何を考えているかなどということも、分かっているわけではないではないか」
 病気というのは、
「寿命が近づいているから、身体が弱ってきている」
 ということなのだろう。
 寿命がそのまま、老けることになり、
「人間、50歳を超えると、成人病と呼ばれるものに罹る確率が、ぐんと増える」
 と言ってもいいだろう。
 自殺というものは、
「自分で自分の命を断つ」
 つまり、真剣に病に罹らないようにしようとしても、実際に罹ってしまう人が多い。それでも、完全に立ち向かう人もいれば、
「もういいや、あれだけ一生懸命にやっても、罹ったのだから、かかってしまって、じたばたしたって、しょうがないじゃないか?」
 と考えるのだ。
 秀郷は、
「確かに、病気は気持ちからだというが、それが自殺ということに一足飛びに結びついてくるというのは、あまりにもいきなりの発想ではないか?」
 と考えた。
 しかし、自殺というものが、
「自殺菌という菌によってもたらされる」
 と考えたとすれば、
「人間一人一人の発想は、そこまで一足飛びではないが、自殺菌のような存在があれば、それも不可能ではない」
 ということであり、
「自殺菌というのは、人間が、潜在的に持っている発想を誘発したりするための、媒体のようなものだ」
 ということを考えれば、辻褄が合うように思えてくる。
「一足す一が二」
 になるわけではなく、このように数字上では、一にしかならないが、それを数式で表すと、
「一足す一は一」
 ということである。
 そこで生まれてくるのが、錯覚というものではないだろうか?
 誰もが、結局は自殺で死んでいるのに、それを意識させない。
 だから、本当に自らの命を奪うことは、許されないと言ってもいい。
 つまり、死というものは、
「人間が自由に選べるものではないのだは、実際には自殺なのだ」
 と考えると、一般的な自殺というものを倫理的に許せないという発想は、人間の中から生まれたものであなく、やはり聖書のように、過去から受け継がれたものであり、神からの言葉なのだろう。
 それが十戒の、
「人を殺めてはいけない」
 という戒律であり、その解釈で、人というのは、自分のことではないだろうか?
 そうでなければ、
「人というものを文字通り解釈すれば、ほとんどの人間が、これに違反していることになる」
 と言えるだろう。
 つまり、この場合の、
「人」
 というのは、自分のことではないか?
 宗教とはいえ、自分たちの宗教内だけの、お話であり、前述の、
「モーゼの奴隷解放」
 の話のように、
「負の連鎖」
 というのは、どんどん続いていくものだからである。
 この場合の、
「人を自分と解する」
 という発想は、錯覚に近いもので、かなり強引な発想であることも分かるのだが、この方が、額面通りに受け取った場合に、戦時中などの殺し合いを理解することができなくなるからだ。
「さすがの神も、ここまで人類はおろかだとは思わなかったのか、そもそも、神なんているわけもなく、人間が、実効支配を行うために、統治目的に、考えたことではないかと思う」
 と、納得がいくというものではないだろうか?
「今の人間を、宗教などを一切考えない人間、さらに宗教を毛嫌いしている人間という風に分けると、前者は、まったく宗教自体を信じていない人、後者は、信じていないつもりで考えているが、それは、根底で信じていて、怖がっているからこそ、考えないようにしているのではないか?」
 ということになるのではないかと感じるのだった。
 これも、錯覚によるものであり、
「人間は錯覚するものだ」
 とすると、それを作った神は何を考えて、そのような錯覚を人間に与えたのであろうか?
 そんなことを考えると、またしても、堂々巡りに入り込んでいくのであった。

                 大団円

 秀郷は、ある日、
「もう一人の自分」
 を見てしまった。
 いわゆる、
「ドッペルゲンガー」
 である。
 ドッペルゲンガーというのは、
「見た人は近い将来に死ぬ」
 と言われている。
 最初は、明らかに自分だと思う人間が近くにいた時はビックリした、それも怖いというよりも、気持ちが悪いという感覚だった。
 そして、すぐに、
「これがドッペルゲンガーだ」
 と感じた。
 そして次に、
「俺は近い将来、死んでしまうんだ」
 と思ったのだが、最初に感じた気持ち悪さよりも、それほど嫌な気分ではなかったのはなぜだろう?
 自分が死ぬということが分かったから、怖かったり、気持ち悪かったりしたのではないのだろうか? 普通だったら、そういう感覚になるはずなのに、そうではないのだ、
作品名:生と死の狭間 作家名:森本晃次