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生と死の狭間

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 いつも、親がそばにいて、口うるさくしていることが、その親がいないことで、自分たちに言っていたことが、理屈に合っていない、理不尽なことではないか?
 と感じるのだった。
「ねえ、僕はどこから来たの? お父さんお母さんは?」
 と、優しくお姉さんが話しかけてくれる。
 心の中で、
「お母さんも、これくらい優しく言ってくれれば、嬉しいんだけどな」
 と思った。
 お姉さんを見て、
「キレイなお姉さんだ」
 と感じたが、自分の親にはそんな感覚はなかった。
「キレイだとか、そんな感情は恥ずかしいものなんだ」
 と思うのは、親だからだろうか?
 今から思えば、親だということと、家の中だからということで、よく母親は、着替えなど、子供がいる場所でも平気でしていた。見られても恥ずかしいわけではないのは当たり前のことだが、子供にはそんなことまで分かるはずがない。
 だが、子供としては、
「見たくない」
 という思いであり、それもどちらかというと、
「そんな気色の悪いものを見たいとは思わない」
 という感覚だった。
 正直母親の裸を、
「気持ち悪いもの」
 もっと言えば、
「汚いもの」
 という感覚でいたりしたのだ。
 そういう意味でも、親とはぐれて、他の人と一緒にいるのは新鮮だった。特にお姉さんは一緒にいて、気持ちを癒される気がしたのだが、もちろん、その時に、
「癒し」
 などという言葉を知る由もなく、ただたんに、
「優しいお姉さんと一緒にいると、眠くなってくるような心地よさがある」
 と思っていた。
 それはきっと、生まれた時、いや、生まれ落ちる前まで入っていた母親の羊水の中にいるような心地よさだったのだろう。
 そんな母親が与えてくれた癒しや安らぎというものを、すっかり忘れて、
「汚いもの」
 というのは、失礼千万なのかも知れない。
 しかし、実際になぜ気持ち悪いなどと思うのかというと、
「親と思うだけで、何かくすぐったいような気持になるのと、似たようなものではないだろうか?」
 と思うのだ。
 だが、相手が男性だと、お姉さんに感じたような気持はなかった。どちらかというと、形式的に、
「心配しているふりをしているだけ」
 にしか見えないのだった。
 幼稚園生なので、異性に興味を持つなどということはなく、色恋沙汰ではないことは当たり前なのだが、それだけに、母親の中にいたという感覚を、素直に感じられるのではないだろうか?
 ただ、母親が普段から文句ばかり言っているように思っているので、癒しをくれる相手を、母親以外の女性に求めているだけなのかも知れないと思うと、
「優しいお姉さん」
 という感覚も分かるような気がするのだった。
 ただ、このことを考えると、
「幼児期にも、本当は第一期の思春期のようなものがあるのではないだろうか?」
 と感じたのだ。
 その反動というか、副作用なものとして、母親に恥ずかしいという感情を抱き、他の女性に母親を見るという感覚から、中学生の頃に感じる思春期とは、まったく違うものなのだろう。
 何が違うと言って、明らかに違うのは、
「身体と平行していない」
 ということだ。
 中学時代は、身体が大人になりかかっているので、精神の不安定さと身体の不安定さが絡み合って、身体に異変ではないが、副作用のようなものとして、ニキビや吹き出物ができたりするのだろう。
 そういえば、中学時代の秀郷は、そんなニキビや吹き出物を、自分のものであっても、気持ち悪いとしか思えなかった。だから、人の顔が近づいてきても、
「気持ち悪い」
 と、相手を突き飛ばすくらいに嫌気が刺していたのだった。
 だが、そんな態度にまわりも、怒ったりはしなかった。そのくせ、まわりも、自分と同じように、こちらを気持ち悪がっているように見えないのだが、それは、自分が感じていないだけだろうか。
 そんな状態の頃、
「子供あるある」
 で、迷子になった時、今から思えば、
「あれは、第一段階の成長期における、通過儀礼のようなものだったのではないか?」
 と思うのだった。
 そんな時、何が孤独なのか、そもそも、孤独などと言う言葉も、その意味も知らない子供が大人になって感じるのは、
「記憶に対して、今の意識が勝手に着色した部分が多いのではないか?」
 ということであるが、
 それはあくまでも、
「勝手な着色」
 であって、問題は、子供の頃の記憶が色褪せることなく残っているということの方ではないかと思うのだった。
 迷子になった時、怖いとか、寂しいという感覚はなかったような気がした。それよりも、子供心に、
「お父さん、お母さんに叱られる」
 という思いがあった。
 それは、いつもどこかに出かける時、
「迷子にならないようにね」
 と言われていた。
 迷子がとういうことなのかということは分かっていて、
「迷子になるというのは、恥ずかしいことだ」
 というのも分かっていたつもりである。
 だから、
「迷子にならないように」
 と言っていた言葉の辻褄が合っていることは分かっている。
 そうなると、結論として、
「迷子になるのは悪いことだから、親から叱られても仕方のないことだ」
 ということになるのだ。
 それで実際に迷子になったのだから、当然、怒られるに決まっている。子供としては、理屈よりも、叱られるということが嫌だったのだ。
 叱られるのが、なぜ嫌なのか、本当の理由が分かっていない。
「そもそも、なぜ、迷子になるのがいけないことなのか?」
 ということの理屈はまったく想像もできなかった。
 大人が考えるのは、
「迷子になると、まず、親が心配する。そして、子供の安全がまず最優先なので、まわりに迷惑をかけることも仕方がない。迷子センターに言って探してもらう。その間、親はどんどん心配になってきて、最悪のことを考え始める。そうなると、心労が激しくなり、身体に変調をきたしてしまうかも知れない。ただ、これは、親として、子供が迷子になったのは、親の責任だというプレッシャーに押しつぶされそうになるからだ。子供の安否よりも、そっちの方が怖くなってくるのだ。それは、時間が経つにつれ、発想がどんどん最悪な方に向かっていくからではないだろうか?」
 ということを、いろいろ考えてくる。
 途中から、まったく違ったことを考え始める。それには、どこかに、交わる線が出てくるからで、平行線というものが、
「交わることのない」
 というものであるのに対して、必ず交差するものは、お互いに近寄ってくるもののはずだ。
 近づいて、引き合っていたはずなのに、その接点に気づいていないと、いつのまにか、遠さがっていくことに、違和感を感じ、自分がどこに向かって進んでいるのか分からなくなってくる。
 それが、大人になって考えることなのだ。
「交わることのない平行線」
 というものを、神聖なものとして受け入れることで、交わることを心の中で拒否してしまうことで、交わった瞬間を分かったとしても、
「まさか」
 と感じることで、自分の中で分からなくなっていくのではないだろうか?
 そんなことを考えていると、
作品名:生と死の狭間 作家名:森本晃次