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生と死の狭間

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 という発想は、的を得ているかも知れない。
 他の宗教などでは、
「地獄に堕ちた人は、決して生まれ変わることができずに、永遠に、苦しみ続ける」
 というものもあるが、そう考えると、違った考えも生まれてくる。
 もし、人間の生死というものは、
「輪廻転生しかない」
 ということであれば、地獄に堕ちた人間は、人間に生まれ変われないとすれば、
「人間は、人口がどんどん減っていく」
 という理屈になるが、実際にはそんなことはない。むしろ増えているくらいではないか?
 ということになれば、もう一つの考え方として、
「他の動物が死んでから、生まれ変わった時に、人間に生まれ変わる」
 ということも考えられないこともない。
 確かに言われてみれば、占い師に見てもらった人が、
「自分の前世は、昆虫だったって言われたよ」
 という話を聞いたことがある。
 ということは、この世での出来事があの世に影響するのだろうが、生まれ変わりにまで影響するというのだろうか?
 とも考えられる。
 昆虫は他の生物が人間に生まれ変わるのであれば、人間に生まれ変われるだけの徳を身に着けているということのなるのだろうか?
 それを思うと、
「他の動物が、人間のように意思を持ち、その責任で行動し、善悪の意識を持っていない限り、人間のような、感覚にはなれないだろう」
 と思うのだが、ただ、もう一つ言えることとして、
「人間というのは、そんな偉そうなことが言えるほど、優秀ないきものなのだろうか? 輪廻転生して、次は昆虫だったら、自分に意思はないのだろうから、そのまま、昆虫のまま輪廻転送していくのではないだろうか?」
 と考えるのだった。
 地獄というところがどういうところなのか、考えたことがあった。よくイメージとして頭の中にあるのは、
「パンチパーマに二本の角が生えていて、ギラついた目をしていて、肌が、赤かったり青かったしていて、ほとんど裸の鬼たちが、仕切っていて、人間に対して、あらゆる苦しみを与える小道具を使い、人間を懲らしめるというものである。
「懲らしめる」
 というと、
「人間を正しい道に導くために、痛みを与えたりして、その人に考えさせて、いい方に向かわせる」
 というものであるが、地獄に堕ちてしまうと、もう、そのすべてが遅いのだった。
「死んでしまえば、それまでだ」
 と言われるが、その通りであって、死んでしまえば、生きている頃の常識は通用しないというものである。
 つまり、
「死んでしまうと、何もかも手遅れで、痛い目を見るのは、自分のためではなく、痛い目に遭うために、地獄に来たのだ」
 ということである。
 絶対に抜けることのできない地獄。これが、宗教的にも言われていることであり、地獄と、永遠という言葉は、切っても切り離せない言葉となるのではないだろうか?
 ただ、これはあくまでも、宗教上の発想であり、
「本当の地獄は、この世にある」
 という発想もある。
 それは、きっと、いわゆる、
「この世の地獄」
を見た人が、
「この世で、逃れられない永遠の苦痛を感じた」
 からであり、人間には寿命があると分かっているので、永遠とは結びつかないことから、他の人は、
「この世の地獄」
 ということにピンとこないのかも知れない。
 地獄というところは、本当に孤独なところだろう。ただ、あまりにも苦痛がすごくて、孤独というものを、この世にいる時のような、苦痛に感じることはないだろう。
 この世にいて、孤独を恐怖と感じるのは、苦痛の中にまだ何か余裕があるからなのかも知れない。
 生きている以上、呼吸をしなければいけない。だから、呼吸をするくらいの余裕という意味で、生きるためだけの余裕は感じているのだろう。
「では、地獄では、そんな余裕など感じないのだろうか?」
 少なくとも生きているわけではないので、
「生きるための苦痛や、余裕というものはない」
 に違いない。
 ただ、孤独というのは、地獄に限ったことではない。そうは思うのだが、
「地獄という場所においての地獄だけは、他の地獄とはわけが違うような気がして仕方がない」
 と思うのだった。
 地獄という言葉には、いろいろな意味が含まれているのかも知れない。
 状況を示している場合もあれば、地獄という、
「想像上の場所」
 という場合もある。
 どちらが怖いのか、正直分からないが、それはその感じる人によっての、個人差があるということなのだろう。
 ただ、この世の地獄を味わっている人は、そこに、
「孤独」
 を感じているのかも知れない。
 普通に地獄も何も感じずに生きている人間は、孤独をどのように考えているのだろう。
 秀郷は、孤独を苦痛だとは思っていない。ただ、子供の頃は、
「孤独にはなりたくない」
 と思っていた。
 それは、幼稚園の頃だっただろうか? 家族で遊園地に遊びに行った時、
「子供あるある」
 で、迷子になったことがあった。
 親がいないので、確か、自分は泣いていたような気がする。
 それが孤独だったのかどうかわからないが、少なくとも、泣きわめくことで、誰かに今の自分の状況を分かってほしいと思うのか。それとも、気づいてほしいと思ったのかのどちらかなのだろうが、どっちなのか、正直覚えていない。そのくせ、その時の感覚は憶えているのにである。
 まわりが、自分に気づかずに、どんどん通り過ぎていっているのを、明らかに、
「無視された」
 という感覚になっていることは分かっている。
 だから、誰も気にしてくれないことを恨んでいるかのように、泣きわめくのだ。
 子供だから、泣きわめくことを恥ずかしいなどと思わない。親からは、
「恥ずかしい」
 と言われるが、自分はそんな風には思わないのだから、それ以上どうすればいいというのか?
 これは、成長してからその時のことを思い出して、あたかもその時に感じたかのように感じるのは、無理もないことなのだろうか?
 特に相手が親だと、怒られれば怒られるほど、反発したくなる。
 今でも子供を叱りつけている親に対して、さらに泣き出す子供を見て、
「ああ、頑張って逆らっているんだな。せいぜい頑張れ」
 と感じるのだった。
 子供心に、親に対しての反発は、
「子供だからできるんだ」
 という思いと、
「大人になって同じことを感じれば、子供の方が正当性があるんだろうか?」
 という大人のようなことを考えていた気がするのだが、
「それは、大人になったから後から思い出して感じることなのか?」
 それとも、本当に、子供として感じたことを、そのまま意識が覚えていることなのか?」
 と考えるが、自分としては、
「子供心にも、理屈があって、ピッタリと嵌った時だけ、意識として残っているのではないか?」
 と感じるのだ。
 だが、それは子供の自分がませていたというわけではなく、
「子供は子供で理解できるエリアを持っていて、そのエリアを、大人になっても、忘れないだけの意識があるのかも知れない」
 と感じるのではないかと思うのだった。
 迷子になった時、一人でいることを、実は怖いとか、苦痛だとか思わなかった。
作品名:生と死の狭間 作家名:森本晃次