生と死の狭間
しかし、実は結構苦しいものだと聞いたことがあった、ショック状態に陥る場合があるからだ。
また、本当に苦しまずに死ねるものとして、
「睡眠薬の服用」
というものが考えられるが、
これも、昔と違って、今は安全な、つまり、簡単に死ねない睡眠薬が増えてきているので、中途半端な服用をすると、死にきれずに、睡眠薬の副作用で、嘔吐などの苦しみを経るだけで、死に至らない場合も多いだろう。
しかも、その場合は、後遺症が残る可能性もある。
そもそも、自殺を思いだって、死のうとしても、死にきれなかった場合に、残るものとしては、まず、
「後遺症の問題」
がある。
痺れが取れないとか、頭痛が慢性的に続くなどという後遺症である。
さらに、自殺しきれずに、苦しんでいるところを誰かが発見し、病院に運ばれ、治療を受けて回復したとしても、その治療費は、基本的に健康保険はきかない。
何と言っても、
「健康」
保険なのである。
死のうとして、死にきれなかった人は、健康を、そして生きることを放棄しようとしたわけであり、保険がきくということにしてしまうと、逆に自殺を煽ることにも、繋がりかねないだろう。
しかも、個人で入っている生命保険も、その会社や特約の内容によっても違うのだろうが、健康保険がきかないのだから、生命保険もきなかいと考えるのが、当たり前であろう。
となると、下手に生き残り、長期療養が必要となると、莫大な金が必要になる。下手をすれば、家族に迷惑をかけてしまうことになりかねないではないか。
そんなことを思うと、自分がどうして死のうと思ったのか、死にたいと思ったのかという根本的な考えが、頭の中から失せてしまうような気がして、おかしな気分になってしまうだろう。
まわりに迷惑をかけるという意味で、死ぬことができたとしても、残された人間を確実に不幸にしてしまうのが、
「飛び込み自殺」
である。
つまりは、電車などに飛び込む場合である。
これは、
「電車の運行を確実に止めてしまう」
ということであり、自殺者が本懐を遂げて、死ぬことができたとしても、それは関係がない。
鉄道会社は、被った迷惑を、遺族に容赦なく、要求してくる。
ただ、この場合、実におかしなことで、
「確かに鉄道会社は、遺族から、賠償金を貰うように請求するが、だが、それはすべて、鉄道会社に行くだけである。
そもそも、鉄道会社の理念は、
「決まった時間に、安全に人やものを送り届ける」
というものではなかっただろうか?
決まった時間に届けることができなかったのであれば、それは鉄道会社の責任であり、本来であれば、一番迷惑を被ったのは、客のはずである。それなのに、賠償金は、すべて鉄道会社が受け取るだけで、客には一切のバックはないだろうから、これほどの理不尽はないのではないだろうか?
そういう意味で、遺族に対してまで、賠償金を請求する鉄道会社は、
「やくざよりもひどい」
と言ってもいいのではないだろうか?
ただ、もしこれを、
「自殺をする人に対しての抑止になればいい」
ということであれば、分からなくもないが、抑止になるということはない。
なぜなら、
「他の方法で死ねばいいだけのこと」
だからである。
「列車に飛び込むのは、後のことを考えるとやめておいた方がいい」
ということで、鉄道自殺の抑止にはなるだろうが、そうなると、さらに、鉄道会社は、露骨に、
「自分たちだけのことしか考えていない」
と言われても仕方がないだろう。
世の中というのは、しょせん、そういうものである。
だから、自殺をしようという人が後を絶たないのだ。
自殺をする人はなぜ自殺をするのか? いろいろ理由はあるだろうが、究極の理由として、
「生きていても、孤独でしかないからだ」
ということになるのだろう。
孤独
つまり、
「人間、最期は自分一人なんだ」
ということは、分かっているつもりである。
しかし、そう思ったとしても、実際に自分が一人になってから考えることとして、自殺を考える人と、開き直る人がいるだろう。
「その境目って何なのだろう?」
と考えてしまう。
一つは、そのキーワードとして、
「永遠」
というものがあるような気がする。
「永遠に、逃れられない苦しみ」
であったり、
「逃げても逃げえても追いかけてきて、永遠に付きまとわれる苦しさ」
そういうものを悟ってしまうと、
「自分の居場所は、もうこの世にはない」
と考えてしまうに違いない。
確かにそれはあるに違いない。
生きていて、自分が今どういう立場にあるか分からなくなると、きっと、堂々巡りを繰り返してしまうに違いない。
すると、逃げても逃げても追いかけてくるものから、永遠に付きまとわられてしまうということになるだろう。
孤独というものが、
「負のスパイラル」
を連れてきて、逃げることのできないものになってしまうと、そこから自分が、何をどうしていいのか分からなくなると、あの世にいる自分と同化してみたくて仕方がなくなる。
きっと、あの世から、お迎えが来ているのだと思うのであって、そのためには、自分が死を選ぶしかないと思う。
それは、
「楽になりたい」
という感覚に似ているのではないだろうか?
一瞬の苦しみだけで、後は永遠に苦しみのない世界にいけると思い込む。だから、死を選ぶのだ。
だからと言って、本人が、死の世界を知らないわけではない。
というのも、秀郷の場合は、仏像に一時期造詣を深めたことがあって、天界のことを勉強したりした。
すると、天界には、4つの世界があり、上二つは、神や仏になるために、選ばれた人がいくところで、3段階目は、普通の人がいく世界である。
これが一般的に言われている天国なのかは分からないが、一番下は、ご想像の通り、
「地獄行き」
というものである。
いろいろな宗教でも、死後の世界は、そこまで差はないようだが、この天界の発想として、少し他と違うところは、
「輪廻転生」
という考えと少し違うところである。
「人間に生まれ変われるのは、3段階目だけの人だ」
ということである。
上二つの段階は、そもそも、神や仏として天に召されたという考え方なので、生まれ変わりなど、そもそもないのだ。仏教でいえば、
「悟りを開いた如来」
あるいは、
「悟りを開くために、日々修行をしている菩薩」
などが、いるが、彼らがこの世に戻ってくる時は、生まれ変わりではなく、如来や菩薩として、崇められる存在として、降臨してくるのだ。
つまり、人間に生まれ変わるのは、下の二つしかないということになるが、
「天界の考え方として、地獄に堕ちた人間は、生まれ変わることができるが、それは人間ではない、他の生き物に生まれ変わるということになるのだ」
と言われている。
だから、人間に生まれ変われるのは、3つ目の段階の人だけということになるのである。
そんな世界観は、仏教だけの世界だけのものであろうか?
いろいろ考えてみると、
「地獄に堕ちた人間が、人間には生まれ変わることができない」