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生と死の狭間

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 何しろ、近づいて見えているわけだからである。しかし、平行線なのだから、永遠に交わることはない。
 ということは、その矛盾を解決するための言い訳としては。
「限りなくゼロに近いところまでは接近するが、決して交わることはない」
 という苦し紛れの考え方になる。
 それは、整数を整数で割った場合には、
「限りなくゼロに近づきはするが、ゼロにもマイナスにもならない」
 という理論である。
 これが、目の錯覚と、平行線が交わることはないという二つの問題を一気に解決してくれるものである。
 そういう意味で考えると、数学という学問は、倫理や、社会的な通念に関しての回答も含んでいるのだとすれば、それは結構すごいことである。
 これは数学がすごいのか、数字というものそのものがすごいのか、考えてしまう。しかし、数字のすごさは何であっても揺るぎのないものだと思うのは、秀郷だけではないだろう。
 自殺をする人間の動機を考えてみた。それは、
「どうして死ななければならないのか?」
 というよりも、
「どうして、死にたいと思うのか?」
 ということの方が、問題ではないかと思うのだ。
 死にたくなるほどの理由があるのであれば、その根本的な問題が解決しなければ、問題は解決しない。
 しかし、どうして死にたくなるのか? ということを考えてみると、一つ、面白いことを言っていた人がいた。秀郷もその考えに賛成なのだが、
「人が自殺したいような不幸を感じた時、死にたくなるように仕向ける菌のようなものがある」
 という考えであった。
 似た考えとしては、
「死神」
 という発想に近いものであった。
 ただ、死神の場合は、寿命というものを分かっていて、死が迫ってい人の近くに出るだけで、実は、死に近づいている人の足を引っ張って、死の世界に引きずり込もうとしているのではないと思うのだ。
 その点、自殺菌は、
「死にたいと思っている人の気持ちに取りついて、
「死ぬと楽になれる」
 などと惑わせることで、人が死ぬことを煽っているのではないだろうか?
 きっと死神は、約束事として、
「己の力を用いて、人を死ぬ方向に導くことは許されない」
 と考えると、たまたま、死にそうな人間を分かっているので、近くにいるだけで、ひょっとすると、
「死の世界への使者」
 のようなものなのかも知れない。
 それを思うと、
「まるで、座敷わらしと正反対ではないか?」
 と言えるのではないだろうか?
 座敷わらしというのは、居間の床の間にいる子供の妖怪で、その妖怪が見える時は、その家は繁栄する。
 しかし、その妖怪がいなくなったり、見えなくなると、その家は没落してしまうというのが、座敷わらしの伝説であった。
 死神は、
「見てしまうと誰かが死ぬことになる」
 と言えば恐ろしいが、それは寿命の人だけであり、本当は死ぬ意思もない人間を死の世界に誘い込むというのは、都市伝説か、エンターテイメント性を持たせるためのものなのかも知れない。
 となれば、
「死神がいれば、死ななくていい人が死ぬことになる」
 と言われれば、死神とすれば、いい迷惑である。
 そういう意味でいえば、前述のドッペルゲンガーの方が、悪の妖怪と言えるのではないか?
 そもそも、ドッペルゲンガーは妖怪と言っていいのかどうか、問題であるが、その正体は、
「もう一人の自分」
 なのである。
 言われていることとしては、
「ドッペルゲンガーを見てしまうと、近い将来、死ぬことになる」
 と言われていることである。
 こちらは、妖怪というよりも、予知能力の類ではないかと思われる。
 というのは、ドッペルゲンガーを見ると、死ぬと言われていることとして、かつての著名人が自分のドッペルゲンガーを見たことで、死に至ったという逸話がたくさん残っているからである。
 しかも、信憑性のある形の話が残っているのである。
 芥川龍之介であったり、リンカーンであったりが、自身のドッペルゲンガーを見ている。
 これは他人から見られた場合にもドッペルゲンガーの伝説は生きているようで、一度に。40人の人から、自分と同じ人を目撃したと言われたという話も残っているだっや。
 つまり、
「ドッペルゲンガーの方がよほど、死神に近いではないか?」
 と言えるかもしれない。
 昔からあった、妖怪マンガの中で死神が出てくるが、マンガの世界の死神というのは、結構コミカルに描かれている。
 そもそも、妖怪を恐ろしく描くと、子供向けのマンガにならないということで、コミカルに描かれた妖怪マンガで、そこに出てくる死神というのは、まるで人間世界の営業職のような妖怪だった。
 閻魔大王から、ノルマが与えられ、例えば、
「一週間で、10人の魂を連れてこないと、バツを与える」
 などという、厳しいノルマがあったりする。
 死神は、そのノルマを果たすために、バスを事故に見せかけて、転落させ、集団で死人を作り、その魂を地獄に送り込もうとしたのだった。
 そもそも、地獄行きの人間というのは、芥川龍之介の、
「蜘蛛の糸」
 に書かれているように、この世で、悪さをした人が、閻魔大王の裁きによって、地獄に堕ちるかどうかが決まるというものだ。
 いくら閻魔大王が、地獄の番人であるとはいえ、事故に見せかけて人を亡き者にしてまで、霊魂を地獄に送り込んでいいわけではない。
 そもそも、死んでから、
「その人たちすべてが、地獄行きなのか?」
 ということになるのである。
 全員が地獄行きであれば、死神が何かの手段を使って、そのバスを地獄行きの人だけが乗るバスということにしたとして、果たして、全員が本当に地獄行きなのだろうか? 運転手などは、どうなるのだろう?
 もし、運転手が助かるということにしたとしても、生き残った場合に、事故の責任を取らされることになり、下手をすれば、
「生き残った方が地獄だ」
 という思いをしなければならない。
 そう、運転手は事故を起こした時点で、
「もう、人生としては、終わってしまったも同然なのだ」
 と言ってもいいだろう。
 ということは、
「事故を起こして集団で人を殺すということは、いくら閻魔大王から指令が出たとしてもしてはいけないこと」
 なのである。
 最後はどういう形で事件を解決したのか忘れてしまったが、たぶんマンガの世界としては、死神をやっつけることで、その野望をくじくというものだったはずだが、その時、死神は逃げてしまうのだ。
 考えてみれば、
「妖怪はしなない」
 のだ。
 退治すると言って、どうするのだろう?
 昔からの逸話などでは、魔法を使って封印し、どこか山奥にでも、埋めてしまうという話が一般的だが、そのマンガの死神は逃げ回って、まるで、準主役でもあるかのように、ちょっとした場合に出てきたりする。
「きっとマンガ家が、ネタに詰まった時の切り札として、死神のようなマンガの世界では、少し憎めないタイプの妖怪を生かしておいているのだろう?」
 と思うのだった。
 確かに死神は、バスを転落させるかのような悪だくみをした悪党として描かれているのだが、死神は、別に、
「悪いことをしている」
 という意識がない。
作品名:生と死の狭間 作家名:森本晃次