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後悔の連鎖

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「確かに言われる通り、居酒屋だったり、ちょっとしたファーストフードの店なんかがなくなってしまった気がする。そして何よりもこじんまりとしてしまって、一部の横丁のような雰囲気の場所に数店舗が押し込められ、それ以外は、コンビニがあるくらいで、賑わいなどというのはまったくなくなってしまっているように感じるよな」
 というと、
「そうなんだよ。今までは、何でも揃うとまでいうと大げさだけど、何よりも、本屋だったり、文具店だったり、CDショップなどがないだろう? しかも、駅の売店自体がない。これは時代の流れなのさ。今の時代は、本や音楽というのは、ネットの配信で、電子書籍だったり、配信音楽などとして、媒体を必要とせずに、購入できるのさ。別に店に行く必要もない。音楽など、1曲にすれば値段は安いし、月に定額の契約をしておけば、いくらでも、ダウンロードし放題というのもある。やはり、スマホの普及で、パソコンのように、その場所でなくても、歩きながらでも、できるという利便性ができてから、街の本屋であったり、CD屋というのが、どんどん姿を消していったのさ。それを思うと、実に寂しいものじゃないか」
「なるほど、確かにその通りですね」
「それに、駅も、鉄道会社の方針で、今までしていたサービスをどんどん取りやめて、他の会社に任せるなどということをしているだろう。サービスがあからさまになくなっていったのは、昔から考えれば、食堂車がなくなったり、ビュッフェがなくなったり、そして、特急列車での、車内販売もない。いわゆる、昭和の時代の電車に乗る楽しみというものが、どんどんなくなっていくわけさ。そりゃあ、電車に乗って、旅を楽しむというのが好きだった人にはたまらないだろうな。それに、昔は、主要駅にコンビニがあって、それは鉄道会社が経営していたものさ。それと、昔からあった、キオスクというもの、お土産屋だったり、駅のホームにあった売店も、今ではほとんど見かけない。君は、駅で新聞雑誌を販売しているのを見たことがあるかい?」
 と聞かれて、
「ええ、そういえば、昔、ホームの売店など、階段状になったところに、新聞が丸めて、それぞれ置かれていたのを見たことがありましたね。今ではコンビニでしか、そういうのを見ることができなくなったんですけどね」
 というと、
「新聞だって一緒さ、ネットでいくらでも見ることができる。スマホの前の時代から、パソコンで見られればよかったので、家で見て出てきたり、会社で確認する人も増えただろうね」
 というので、
「そうですね」
 と、ため息をつきながら相槌を打った。
 さすがに、ここまで話してきただけで、ウンザリもしてくるというものだ。
「だけど、昔は、駅で新聞を買ったりして、吊革につかまりながら、サラリーマンは皆新聞を最大限に折りたたんで見ていたものさ。そして、読み終わった新聞は、そのままどうするかというと、網棚に捨てるのさ。あまり礼儀正しいとは言えないが、それも、昔の風物詩だったことを思えば、今のような味気ない時代を考えれば、差し引いても、昔のようがよかったと思うんじゃないか?」
 と言われた。
「なるほど、確かに、今は新聞をスマホで見るから、皆新聞の代わりにスマホを持っているという感じですね?」
「そうだね、だけど、スマホを見ている人が、全員、新聞を見ているわけではない。むしろ、ゲームをしたり、音楽を聴いたりする人の方が多いかも知れない。それだけスマホ一台あれば、何でもできるということさ。便利ではあるが、どうしても、味気なさが残ってしまうのは、仕方がないことだと言って片付けられるものだろうか?」
 と、その人はいうのだった。
 昭和の時代というのを、ほとんど知らなかったが、こうやって話を聞けば、
「なるほど」
 と感じさせられる。
 それを踏まえて、K市の駅前を考えると、この人の言う通り、
「再開発された駅に、期待を持つのは酷だということなのだろうか?」
 と思って、同じ県内の、別のK市を思い出した。
 そこは新幹線が停まる駅なのだが、昔は特急列車が停まっていた。新幹線が開通してから、特急列車がなくなってしまったので、寂しい限りであるが、まだ、昔の再開発駅の前は、改札を抜けてから、ホームに向かうまでの場所で、何と、駅内で、孔雀が飼われていたのだった。
「昔はこんな駅、たくさんあったんだけどね」
 と言っていたが、実は、その孔雀が変われていた時期を、知らない。後で聞いた話であったが、駅前も何か所か、飲み屋横丁があったり、ファーストフードの店も数軒あったということだった。
 今では飲み屋はほとんどない。ちょっとした立ち飲み系か。昔からあった、スナック程度なのだが、駅前から少し離れているので、わざわざ行く人もいないだろう。
 何しろ、ほとんどが電車を降りてから、バスに乗って、いくつかの住宅街のある街に帰っていくのだから、駅前の店に立ち寄る人はいない。
 それは、
「駅前が、寂しくなったから行かなくなったのか。それとも、人がいかないから、駅前が寂れてしまったのか:
 まるで、
「タマゴが先かニワトリが先か」
 というような、まるで、禅問答のようだが、そんな状態だったようだ。
 この私鉄の駅も、再開発をされても、元のような賑わいを感じることはできないだろう。
 そもそも、
「時代の流れに逆らえない」
 ということになり、本屋やCD屋のような運命が待ち受けている店もあるのかも知れない。
「本当に、世の中、暮らしにくい世の中になったものだ」
 と感じているのは、自分だけだろうか?
 確かに、自分と似たような年齢の人は一抹の寂しさを感じるだろう。
 しかし、これからの世代、十代や、二十代前半という人にとっては、これくらいの静けさが、
「当たり前だ」
 と思うことだろう。
 彼らにとって、昭和というと、
「教科書に出てきた、歴史上の時代」
 という感覚で、江戸時代や明治時代と変わらない、歴史の一ページとしてしか感じていないことだろう。
 それを思うと、出来上がった駅前が閑散としていようと気にすることもない。
 最低限の店もできるだろうが、その店も、果たして考えているほどの売り上げがあるのだろうか?
 今の若い連中は、
「ないならないで、何とかできる」
 と思っている。
 むしろ今の連中の取り柄は、そこしかないのではないか?
 と思えるのだ。
 この発想は、
「楽して、欲しいものを手に入れる」
 という感覚とも違っている。
 この感覚は、もう一つ上の世代の人の考えることではないだろうか?
 もう一つ上の世代が出てきた時でも、
「世の末だ」
 というくらいに考えていたのに、今の子はさらにそれの上を言っている。
 きっと、
「世の末」
 だと感じた連中から見ても、
「あいつらが何を考えているか分からない」
 と言えるだろう。
 ロボット開発がなかなかうまく行かない中、人間がロボット化していると言ってもいいのではないだろうか?
「今の若い連中は何を考えているか分からない」
 と、世代が変わるごとに、ずっと言われてきたことだが、最近では、その言葉が通じなくなってきたのだ。
 というのも、
「今の若い連中は、何も考えていない」
作品名:後悔の連鎖 作家名:森本晃次