後悔の連鎖
そんな機械が、次第に、バランスがおかしくなる。すぐに気づいて部品を取り換えればまた違うのだろうが、なかなかそうもいかない。
すると、それまでの動きが明らかに鈍くなり。まだ持つはずの場所までガタが来るようになる。
その理屈に気づけばいいのだろうが、まず経営陣に気づく人はいないだろう。その時に気づくくらいなら、最初から、バブルの欠点について真剣に考えて、崩壊した時の恐ろしさをシミュレーションする人だって出てきてもいいはずだ。
そんな人が現れないのだから、バブルが崩壊した時は、ある意味、
「皆気づかなかったので、しょうがかい」
と言えるのだろうが、そんなバブルを目の当たりにしてきたくせに、バブルで趣味に走る人が増えたということで、その人たちをターゲットにし、それまで、小説を書いていた人の不満をうまくくすぐるというやり方は、最高にうまいと言えるのだろうが、それだけ回転の速い頭を持っていながら、
「自転車操業というものが、決して成功するものではない」
ということに、なぜ気づかなかったというのだろう。
いや、気づいている人もいただろうが、社長がワンマンで、社員のいうことを聞かないだとか、会社がブラックで、舌からの意見を無視したり、意見をしてくる社員を、簡単にクビにしたりなどとできたのだろう。
実際には簡単にはクビにできないのだろうが、そこはブラック。元から、何となく会社に疑問を感じている人であれば、ちょっと、つつけば辞めていくだろうという考えであっただろうが、辞めた後のことを考えていなかったのも、会社の経営者の傲慢さだったのかも知れない。
辞めていった人の中には、本を出した人の大多数の中でなので、少しは、
「何か怪しい」
と思っている人もいるだろう。
そんな人は、かつて自分が直接担当した人の中にもいるのが分かっていると、辞めた後に接触することもある。
「もう自分はあの会社に見切りをつけた」
ということで近づいて、同じような不信感を抱いている人たちを募り、
「被害者の会」
なるものを立ち上げ、会社を告訴するのを裏から手伝っていた人もいるだろう。
内情を知っているのだから、弁護士と相談して、
「どこを攻めればいいか?」
ということも分かっているので、弁護士もやりやすい。
そうやって、告訴に加わる人が増えてくると、出版社もたまらない。
ただでさえの自転車操業。宣伝費を使って、人に関心を持たせることが始まりなのに、話題としては、
「バブルが弾けてかなり経つのに、いまさらながらの自転車操業。明らかな詐欺行為は、人の心理を巧みに使ったもので、騙された人は数知れず」
という見出しの元に、週刊誌がどんどん書いたりすると、新規の人が入ってくるはずもない。
そこまでくると、やっと詐欺だったことに気づいた、本を出した人は、出版社への告訴に対して、被害者の署名という形で協力をするのだから、出版社はあっという間に破綻してしまう。
負債額も相当なもの、せっかく作った本も、元々、売れるわけがないので、倉庫に眠らせることになる。
本を作れば作るだけ、在庫が膨れ上がり、それこそ、
「紙屑の方が、また使い道がある」
とまで、本に対しての感覚がマヒしてしまうほどに、出版社の人も感じているのではないだろうか?
破綻寸前になって、社員たちも、やっと、
「自転車操業がうまく行くはずない」
ということに気づく。
まるで、バブルが弾けた時に、経営者が気づいたあの時のようではないか。
10年も前に分かっていたことを、何をいまさら感じないといけないというのか、さぞや、社員たちは、一律に、自分たちのバカさ加減に気づかされたに違いない。
それが一体何を意味するというのか、きっとあっという間に、それまでは必至で仕事をしていたはずなのに、
「いつの間にか、犯罪者の片棒を担ぐようになっていたなんだ」
という後悔をすることになるのだ。
そのせいもあって、
「うまい話には、必ず裏がある」
ということを思い知ったことだろう。
それは、本を作った人たちにも言えることだ。確かに、本を出したいという意思は尊いもので、汚してはいけないものなのだろうが、明らかにおかしいこのことに、どうして気づかないのだろう?
「定価1000円の本を1000部作るので、共同出版で折半しましょう」
と言ってきていて、そして、著者に対しての出資金の見積もりが、
「150万円を出資してください」
というのである。
掛け算ができれば、これがおかしいことは小学生だって分かるはずだ。それを。
「おかしいのではないか?」
と指摘すると、相手は。
「いいえ、これは、本屋に置いてもらったり、宣伝のための費用もあるので、これくらいかかる」
というのだ。
しかし、ちょっと考えれば分かるはずだ。
「宣伝費や、販促費も含めたところでの定価なんじゃないですか? 製作費と合わせたところでの出資金と定価の差が、利益になるんじゃないですか? じゃあ、この定価ってなんなんですか?」
というと、相手は何も言えなくなってしまう。
普通に考えれば分かることなので、相手も、それこそ断られるのは、百も承知で、
「下手な鉄砲」
を数打ってきているのではないだろうか?
つまり、1000人に対して、同じことを言って、そのうち50人でも、了承してくれれば、
「御の字だ」
と思っているのだろう。
分母が100でも1000でも、分子が50であれば、それでいいという考え方であった。
相手が詐欺であることは、見積もりを見た瞬間に分かりそうなものだが、それでも、期待して、中には、
「借金をしてでも、本を出す」
という人もいるくらいだ。
それだけ、洗脳がうまいというのか、それとも、著者が自分に対して一縷の望みだったはずの作家への道を、傲慢にも、
「自分にも、作家になれる」
という感覚を持ったからだろう。
それだけ、出版社の批評が巧みだったかということであるが、やはり、著者の傲慢さがそこに含まれているのだろう。
傲慢と言ってしまうと、申し訳ないと言ってもいいのだろうが、結果、さらなる被害者を産むことに加担した形になるというのは、本人たちもたまらない事実だったに違いない。
出版社側も、最初の成功が、大いに味を占めることになったのだろう。
当初の予想よりも、はるかにうまく行ったのかも知れない。
これは、大東亜戦争と同じで、本当なら、
「ある程度のところまで儲ければ、下手を打つ前に、さっさと撤退して、それを資金に、別の事業を展開しよう」
と思っていたのかも知れない。
「それは、自転車操業がどれほど怖いものか?」
ということが分かってのことではないだろうか?
要するに、彼らとしてみれば、
「最初にうまく行きすぎてしまったので。引き際を間違えた」
と言っていいだろう。
そもそも、詐欺というものは、そういつまでも続くものではないことくらいは分かっていたはずだ。