小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

後悔の連鎖

INDEX|13ページ/23ページ|

次のページ前のページ
 

「私たち女性というのは、特別な存在」
 ということを、暗にほのめかしているようにも思える。
 つまり、
「女性蔑視」
 などという言葉はきれいごとであり、
「風俗嬢という人たちを犠牲にして、男性をやり込めたい」
 というだけではないだろうか?
 でなければ、前述のように、女性が商売として行っていて、法律上、正規の職業なのに、それを、女性蔑視というのは、矛盾しているというのではないだろうか?
 それとも、
「自分だけが、特別な存在だ」
 とでも言いたいのだろうか?
 ある意味、
「何様のつもりなのか?」
 と言ってもいいくらいである。
 そんなことを考えていると、実際の男性の目だけではなく、女性の視線も怖い気がする。女性が女性の視線を怖いと思うのは、マスクをしているから、
「心を読まれない」
 と思っているからだろう。
 とにかく、風俗嬢の話に対して、敏感に反応し、枕詞のように、女性蔑視という女は、
「私だったら、死んでも風俗なんかで働かない」
 と思っているに違いないのだ。

                 負のスパイラル

 そんな時代に、K市では、もう新しい産業に着手するのに疲れたのか、マンション経営であったり、土地の有効活用が中心になってきた。
 そして、無難なところで、街を挙げて何かをするというわけではなく、土地、建物を貸し付けることで、そこで、チェーン店の展開であったりと、いわゆる、
「他力本願的なところ」
 が、多くなってきた。
 そもそも、他の街はすでにそういう体制に移行しているところが多い。ここは、商店街など、昔から、結束の強い街だったこともあって、他とは違った、昔からの体制があったのだった。
 本当であれば、もっと早くに気づくべきだったのだろうが、どうしても、県庁所在地を囲む街同士での確執のようなものがあり、
「あそこの市には負けられない」
 という意識が昔から強かったのだ。
 特に、隣のO市とはその傾向が強く、市制が敷かれたのも、昭和二十年代と、まわりの地区に比べて早かったのだが、O市から比べると、若干遅かった。
 その件に関しては、お互いに意識はしていたが、どうしても、
「やった方よりも、やられた方の方が、どうしても意識過剰になってしまう」
 という傾向の通り、
「O市には負けられない」
 という思いは、O市が、K市に対して感じるよりもかなり強いのだった。
 一種の逆恨みに近い要素があるのだろうが、張り合っているだけで、別に恨みがあるわけではない。
 実際には、昭和の頃の、水不足の際には、ダムを確保していたO市に比べ、K市は、人口の急激な増加に対応できておらず、その間に起こった水不足だったので、絶対的なミスが不足していた。
 O市も決して、余裕があったわけではないのだろうが、
「隣の市が苦しんでいるのを、黙って見て見ぬふりはできない」
 という意識からか、水を分けてくれたのだった。
 それは、まるで、内陸部にいるため、まわりの要衝を抑えられてしまったことで、塩が入ってこなかった、戦国時代の甲斐国の戦国大名であった武田信玄に対し、敵でありながら、好敵手としての度量を発揮し、越後の上杉謙信が、塩を送ってくれたことのエピソードのように、
「敵に塩を送る」
 という言葉通り、美談が伝えられた。
 K市とO市というのは、そういう意味での、最適な好敵手なのかも知れない。
 確かにライバル視は絶えずしている。ただ、それは、
「常に高みを目指して、先に進んでいく」
 という意識の表れではないかと言えるのではないだろうか?
 お互いを意識し、ライバル関係にあるということで、
「相手よりも、少しでも上を目指す」
 という意味で、お互いをライバルとして認めあっていた。
 しかし、それぞれに考え方は違った。
「相手のいいところは認めて、真似できるところは、吸収していこう」
 というO市と違って、
「ライバルと同じことをしていては、絶対に相手よりも上にいけない。しかも相手が先だったら、永遠に二番煎じに甘んじるということであり、その時点で敗北なのだ」
 という意識を持っているので、
「決して、相手と路線は同じであっても、やり方がかぶることはない」
 というのが、K市の基本的な考え方であった。
 O市はすでに、産業の拡張は考えていなかった。どちらかというと、自由な商売を、他から来た人に提供するという、
「開けた街の実現」
 というものを、世紀末あたりから、行っていた。
 それは、バブル崩壊を目の当たりにして気づいたことのようだった。
 バブル経済というのは、
「実体のないものだ」
 と言っていいものである。
 つまり、バブル期の場合は、ある意味、
「限りのないもの」
 という意識があり、
「やればやるほど成果が出る」
 という分かりやすく、目指すものがハッキリしていた。
 ということは、
「事業を拡大すればするほど、売り上げが増えれば増えるほど、利益が上がる」
 という算数の計算通りにあるのだった。
 だから、何も考えることはない。事業を拡大するために、信用を得て、銀行から融資を受けて、どんどんそれを使って、資産運用していく。それがバブルだったのだ。
 だが、形あるものに、限界がないなどという発想は、そもそも、おかしな発想だった。
 それを皆バブルが弾けて知ったのだ。
 もっとも、知らない人たちがいて、それをバブルが弾けても、いまだにできると思ったのが、
「自費出版社系の会社」
 だったのだ。
「とにかく、会員を増やせば、本を出したいという人が増えてくる。そうなると、後は適当に言いくるめて、利益を産んでもらえる」
 という考えだったのだ。
 そのことが、自転車操業であるということは、さすがに彼らだって分かっていたはずなのに、まるで感覚がマヒしているというのか、誰も何も言わなかったのは、上司が怖いからなのか、それとも、真剣大丈夫だとでも思っていたからなのか、果たしてどっちなのだろうか?
 とにかく、やはりと言えばいいのか、どうしても冷めた目で見て、自費出版社は、
「潰れるべくして、潰れていったのだ」
 と言えるのではないだろうか。
 さんざんバブルの時代に、
「事業拡大を行って、過剰融資をしてしまったことで、まず、
「絶対に潰れない」
 と言われていた銀行が破綻した。
「貸付金が焦げ付いた」
 というわけだが、これ自体が、自転車操業のようなものではないか?
 バブルの時代だったから。企業は銀行に頼んで融資をしてもらい、事業を拡大し、利益が生まれる。その利益を銀行に払っていけば、信用となって、銀行もいくらでも金を貸す。それはあくまでも、すべての歯車がうまく行っていたからだ。
 しかし、すべてがうまく行く時代がそんなに続くわけもない。
 これが一つの機械だとすると、それぞれの場所でいくつもの部品が機械を形成しているのだが、その歯車がさびてくればどうだろう?
 同じ時期にできたものであるとしても、機械なのだから、負荷のかかる場所が、すべて均等だというわけではない。そうなると頻繁に利用されるところが一番最初に摩耗してくることになるだろう。なにしろ、機械というものが、消耗品なのだからである。
作品名:後悔の連鎖 作家名:森本晃次