墓場まで持っていきたい思い
確認すれば、すぐに誘拐などなかったことは明白になる。そのあとすぐに本当に誘拐して見れるというのもおかしなもので、その時誘拐に失敗していれば、どうするつもりだったのだろう。少しでも時間差があれば、それも分かるが、ほとんど同時だということは、どっちかが失敗していれば、完全な茶番となり、相手に警戒心を植え付けるだけになってしまう。
自分たちが、動きにくくしたり、わざと簡単に話が進まないようにするのは、何かの目的があるからなのだろうか?
そんなことを考えていると、
「誘拐事件のリスクと危険性」
を加味して考えると、その結論は、
「誘拐なんて、割の合わない犯罪だ」
と、ここまで考えただけでも、そう思ってしまうのだった。
誘拐事件というものは、ニュースになるものと、ならないものがある。特に最初は、
「被害者の命を優先させる」
という問題があるからだろう。
それは、きっと、皆が考えていることだと思う。ただ、これが、
「闇で何とか解決できたものは、どうなるのだろう?」
と考えた時、考えられることとして、これは、福岡刑事の自分勝手な憶測でしかないのだが、
「それを公表してしまうと、模倣犯のようなものが増えてくる可能性があるからではないか?」
というのと、
「下手をすれば、誘拐が多いということで、その署のイメージが治安が悪いということになり、民衆に必要以上に不安がらせることになるのではないか?」
と考えるからだった。
ただ、逆にいえば、それだけ署のイメージが悪くなり、責任問題に発展などすれば、上層部はたまったものではない、何とかして、マスゴミにバレないようにしたり、もしバレても、必死になって、もみ消そうとすることだろう。
「もし、特ダネ的なものがあったら、おたくに、最初に連絡する」
などという言葉を言ったかどうか分からないが、まずゴミもバカではなく、むしろ、悪知恵の働く連中が多いことから、本当の意味を理解しつつ、警察相手にムキにならないのは、今後の協力を考えると、
「一時期の感情に走ることの方が、損になる」
ということを理解しているからであろう。
そう思うと、誘拐事件など、実際の犯罪に比べれば、
「報道されている内容は、もっと少ないのかも知れない」
と考えられる。
今度は逆に、事件が無事に解決した場合は、大げさなほどの記者会見を開くかも知れない。
すべてにおいてそうだとは言わないが、警察のメンツで、検挙できたことを公表したいと考えるのが一番ではあるだろう。
しかし、もう一つとしては、
「犯罪の抑止力にもなる」
という考え方もある。
「営利誘拐などという犯罪は、いくら計画しても、警察の捜査によって、成功する確率はかなり少ない犯罪で、罪も重く、世間に多く知れ渡ってしまう」
という意味で、犯罪自体を諦めるような抑止力を発揮するのではないかという考えである。
これも、間違いではない。犯罪というものは、誘拐事件に限らず、マスゴミに報道されることによって、メリットもあれば、デメリットもあるということだが、営利誘拐などの場合は、誘拐された人間の命がかかわってくるということで、かなりデリケートな問題となる。
実際に、起きてしまった犯罪であれば、もう抑止力は関係ない。後は、犯人の感情で、警察が介入することによって。いかなる精神状態になるかということの方が問題なのであった。
起きてしまった犯罪を解決するには、犯人が分かっている。どこの誰かが分かっていないとしても、警察と話をしている犯人がいるという意味で、犯人による感情の変化によって、被害者の命がいかに変わってくるかということが問題となるのだった。
下手に相手を怒らせると、相手の目的が何であるにしろ、
「ターゲットを誰にするか?」
というのは、何らかの因果関係を持っている人間で、恨みを持っている人間である可能性がかなり高いと言えるのではないだろうか?
それを考えると、
「営利誘拐というものは、犯人側にとって、かなりリスクが大きいのだから、それが果たして、金銭だけの問題なのだろうか? 複数の人間が大規模な計画を練ってから実行されるものなので、それを金銭にすると、身代金で賄えるものなのだろうか? いくら世の中がお金次第とはいえ、お金のためだけに誘拐などという大それたことをするというのも、かなりの勇気と覚悟を必要とするものだ。そうなると、そこに潜在している意識としては、相手に対しての並々ならぬ、恨みのような感情がこみあげてこないとできるものではないだろう」
と言えなくもないはずだ。
誘拐というものを考えた時、まず、考えるのは、
「犯人側の覚悟」
というものであろう。
確かに誘拐というものは、殺人に匹敵するくらいの凶悪犯である。誘拐には、
「相手の自由を奪う」
というもの、そして、本人やまわりの人間に、恐怖の時間を与える」
さらには、
「脅迫による、相手から、何かを奪う」
という行為が含まれる。
脅迫などの場合、時には、まったく関係のない第三者を危険に晒すこともある。例えば、誘拐した相手が、食品関係の人で、引き換えと同時の脅迫の中で、
「おたくの会社の商品に、毒を仕込んだ」
などという、脅迫を一緒にしてきたりした事実もあった。それが、昭和の最期に起こった事件の一つでもあったのだ。
あの事件は、結局、未解決となり、永遠に真相は謎のままである。人が殺されたわけではないので、時効は長くても10年というところであっただろうか? 昭和の最期の頃なので、時効が成立してからも、すでに二十数年が経っている。
あの事件では、複数の食品メーカーが脅迫の対象となったのだが、最初のきっかけは、某お菓子メーカー社長の誘拐事件だった。
誘拐の目的もあいまいなままに、いつの間にか開放され、そのうちに、違うメーカーにも犯罪が飛び火(?)する形になって、それこそ、犯人グループの本当の目的が掴めなかった。
いきなり複数を狙うということは、捜査上、一長一短なのかも知れない。
一社であれば、復讐目的ということなのだろうともいえるが、これが数社ともなると、犯人の絞り込みが難しくなる。
しかし、逆に言えば、複数社にそれぞれ恨みを持っている人が存在したのだとすれば、十中八九、動機と犯人は特定されたも同然であろう。
犯人側としては、ある意味、攪乱させているつもりなのかも知れないが、警察の捜査が進むうちに、犯人が特定されないとも限らないのだ、
確かに、証拠がなければ、犯人が特定されたとしても、犯人にとっては、さほど脅威なことではない。だが、それは警察が、犯人の考えているほど、無能であった場合のことである。
少しでも、警察を舐めているわけでないとするならば、逆に警察の捜査が、進むにつれて、犯人側で警察を甘く見るようになるかも知れない。
それが一種の盲点、あるいは死角に入り込んだものだとして、警察側からすれば、
「警察も舐められたものだ」
と映るかも知れない。
自分たちはそのつもりではないと思っていても、逆に、犯人側に、
「我々の犯行計画に、一点の狂いもない」
という自信があればあるほど、甘く見ているとしても、無理もないことだ。
作品名:墓場まで持っていきたい思い 作家名:森本晃次