墓場まで持っていきたい思い
「記憶を失っているこの人は、自分がどこの誰かは分かっていて、一週間以上前の記憶はちゃんと存在しているということである。だから、本当であれば、この人物の身内に即座に連絡を入れ、引き取りに来てもらうというのが、一番なのかも知れないが、医者は少し難色を示していた。
「記憶がなくなっているという事実があるわけで、それを失ったと考えるのか、それとも、自分で封印していると考えるのかで、状況が変わってくると思うんです。だから、後者であって、この人が自分の中でわざと記憶を失うような状況に持って行ったのだとしたり、故意に誰かに記憶を消されたのだとすれば、今ここで突き放すというのは危険な気がしますね」
と医者は言った。
「ということは、何か犯罪の臭いを感じるということでしょうか?」
と刑事が聞くと、
「そうですね。今のまま返してしまうと、失った記憶の中に、実は重要な何かを知っていて、そこに犯罪が絡んでいれば、本来なら聞き出さなければいけないことが、永遠に封印されないとも限らないし、もし、この人自身が、犯罪に関わっているのだとすると、命を狙われないとも限らないですよね? そんな危険なところに返して大丈夫なのかということが恐ろしいと思うんです」
と、医者は言った。
なるほど、分かりました。とりあえず、この人の家庭を探ってみることにします。
ということで、この刑事は、清川邸に探りを入れに行った。
するとそこには、何やら、不穏な空気が漲っていた。やたら緊張した面持ちの人が入り込んでいる。この緊張感は、ただ事ではないと思った。
刑事の勘で、
「これって、誘拐事件の捜査だろうか?」
ということを直感したこともあって、それ以上深入りすることなく、署に戻ってきた。
実際に警察内部で、門松署で誘拐事件が発生しているなどということは公表されていない。もっとも、誘拐事件というのは、最初は極秘に進めるものなので、
「こういうことも仕方のないことか」
と刑事は感じながら戻ってきたが、
「なるほど誘拐されたのが、記憶を失っている清川平蔵氏だとすれば、辻褄は合うな」
と感じた。
しかし、実際に誘拐事件があったとして、
「あのあわただしさは、まだ犯人の細かい要求が被害者側に示されていないということだろう」
と感じた。
だが、実際に被害者は、解放されていた。そして、なぜか記憶が失われているのだ。誘拐においてのショックなのか、それとも、誘拐犯側から、自分たちの身元がバレないように、催眠術のようなものを掛けて返してきたのだろうか?
もし、相手が故意に記憶を消そうとしているのであれば、よほど、記憶が戻ることがないほどに、自信のある催眠を掛けたということであろう。
それにしても、被害者宅の様子を見ると、まだ事件はスタートラインということだろう。それなのに、犯人側の人質がいきなり解放されているということはどういうことになるのだろう?
犯人側に、予期せぬ退却しなければいけない事情が持ち上がり、証拠を消して、消え去る道を選んだのだろうが、解放された人間の記憶が戻ってきて、すべてを暴露されれば、それで終わりだろうから、普通であれば、人質が生きて帰ることは珍しいはずなのだが、よほど監禁の際に、犯人を特定できないほど、被害者と接触していないか、それとも催眠が絶対的な効力があり、少々のことでは記憶が戻らないとタカをくくっているのではないだろうか?
とはいえ、今回のことをこのまま放っておいて、相手に何も知らせないというのは、人道的にはまずいだろう。警察とすれば、管轄の問題もあるし、微妙な判断ではあるが、果たしてどうしたものなのかということを、酒殿署の方でも、考えあぐねていた。
病院の先生に相談すると、
「相手の誰か、一番信用できる人にだけ話をしておくことができればいいんだと思いますけどね」
という。
そこで考えたのが、
「そうだ、相手の弁護士さんに相談してみるのが一番ではないだろうか?」
ということになった。
なるほど、記憶を失っている人は、会社社長だという。それだけの人だったら、いちいち調べなくても、ネットで検索するだけで、情報は少しは出てくる。少なくとも、会社のホームページを見れば、社長の顔写真が掲載されているので、彼が話をした身元に間違いはないことがすぐに分かるというものだ。
だが、気になったのは、明らかな誘拐捜査が行われているにも関わらず、その情報が流れてこないということだ。
門松署に出向いても、明らかにおかしな、慌ただしい様子はない。普段と変わりない様子だ。
酒殿署ほど賑やかではないにしても、ここまで平和な様子は、いくら、極秘捜査だとしても、緊張感くらいは、
「誘拐捜査をしているんだ」
という目で見れば、それなりに浮かんでくる状況が感じられるものではないだろうか?
それを考えれば、何か自分たちの緊張感と違うものが籠っていると思われ、
「同じ警察でも、管轄が違えば、ここまで違うものだということがよく分かる」
というものであった。
とりあえず、酒殿署の春日刑事が、
「清川エンタープライズの顧問弁護士である、犬山慶一郎氏」
に連絡を入れるということで、ここは一段落だった。
さっそく春日刑事は、犬山弁護士にアポを取った。さすがに犬山弁護士は、企業の顧問弁護士をやっているだけあって、結構多忙のようであった。
普通であれば、簡単にアポが取れる相手でもないのだろうか、
「清川エンタープライズの清川社長の消息の件で」
という内容であれば、さすがに犬山弁護士も無視はできなかった。
さっそく、弁護士事務所近くのカフェで待ち合わせをすることにした。
春日刑事がカフェにつくと、すでに犬山弁護士は到着していて、スーツに身を包んだそのいでたちは、
「明らかに弁護士」
という雰囲気を醸し出していた。
春日刑事を見つけた犬山弁護士は、立ち上がって、早速名刺を取り出し、
「これはこれは、連絡をいただいたうえに、ご足労までいただいて、申し訳ありません。私は、清川コーポレーションの顧問弁護士をしております。犬山と申します」
と言って名刺を渡してくれた。
そして名刺交換が終わると、今度は、ある提案をしてきた。
「今日のお話は、少しプライバシーが絡むお話になろうかと思うので、奥の個室になっているブースに行きましょう」
と言って、刑事2人をそちらに誘導した。
このカフェは、奥に個室が用意してある。たぶん、ノマドスペースのような、表でパソコンを持ち歩いたりして作業する人のためであったり、営業で、込み入った話になる場合に使用するための、ブース形式の個室が用意されている。
今回のような、人に聞かれたくない場合などは、ブース形式になっているので、ちょうどいい。正直、他の弁護士も同じように使っているのではないかと思うと、少し不思議な気持ちではあるが、
「弁護士に対しての気軽な相談」
のつもりだったが、話しているうちに、話が込み入ってきた時などは、このブースは重宝される。
作品名:墓場まで持っていきたい思い 作家名:森本晃次