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一足す一は?

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 本当にちょうどいいところで目を覚ます。まるでテレビドラマなどで、次回を考えて、ちょうどいいところで来週もみせようという作戦のようではないだろうか?
 都合のいいことというのは、何も夢だけではないような気がする。時々、自分のリズムの中で、
「何か自分の都合がいいように進んでいると思うことがある」
 と感じることが何度もあったりする。
 かと思うと、
「何をやっても、うまくいかないことがある」
 と感じることもある。
 これは、歯車という意味で、うまく噛み合っている時は、すべてがうまく行くようん気がするのであり、ちょっとでも、歯車が噛み合わない部分が出てくれば、こちらも、何をやってもうまくいかない。
 というのも、
「交わることのない平行線」
 であって、
 うまく行く時と、うまくいかない時は、紙一重ということになる、まるで、長所と短所の違いのようではないか?
 それを考えると、長所と短所は、決して、
「交わることのない平行線だ」
 といってもいいのではないだろうか?
 そうなると、背中合わせというのも、同じ理屈でいけば、
「交わることのない平行線」
 と同意語ということになるのであろうか?
 これは、三段論法の考え方である。
「A=B、B=Cであれば、A=Cである」
 という考え方である。
 一種の、
「三つ巴」
 といってもいい関係であろうが、その似た言葉としては、
「三すくみ」
 というものがある。
 しかし、この場合のように、三つ巴と、三すくみとは同じだと言えるのだろうか?
 いろいろと考えてみると、堂々巡りを繰り返してしまいそうで、すぐに考えるのを辞めてしまったのだった。
 とにかく。三角形というものは、何かと奇妙で、奇抜なデザインといえるのではないだろうか?
 陰陽師などでは、五芒星などという五角形のものが図形としては奇抜なイメージを持たれることになっているが、三角形というのは、その造形よりも、それぞれの関係性が微妙に影響しているようである。
 とかく、昔から、偶数よりも、奇数の方が、重宝されているように思うのは気のせいであろうか?
 そもそも、昔から日本では、
「奇数は、縁起がいい」
 と言われてきている。
 陰陽師などが、その謂れだというが、確かに偶数よりも奇数の方が縁起がいいと言われれば、それにふさわしいというものがあった。
 例えば、正月の初詣など、
「三社参りなどというように、偶数で終わらせてはいけない。必ず、偶数で終わらせるのが大切だ」
 ということであったり、お寺などにある、
「何重の塔」
 と言われるものも、
「三重塔」
「五重塔」
 などと奇数しかなく、一番多いので聞いたことがあるのは、
「十三重塔」
 などと言われるものもある。
 数としてはかなり多いようだが、有名なところとしては、奈良県桜井市の多武峰にある、
「談山神社の十三重塔」
 が有名ではないだろうか?
 さらに、俳句なども、
「五七五」
 という十七文字ではないか。
「長所と短所」
 あるいは、
「奇数と偶数」
 のように、まったく対照のものを比較する時、背中合わせであったり、紙一重だと考えることは、無理もないことではないだろうか?
 どうしても、自分の中で都合よく考えようとすると、対照的なものを、あまり遠くに置いておくことは、不利な気がしてきた。一周回って戻ってくるような感覚で、その時には、紙一重であったり、背中合わせであったり、ただ、この場合は、
「紙一重」
 というよりも、
「背中合わせ」
 の方が、よりリアルに感じる。
 紙一重といってしまうと、
「得意なコースであっても、一歩間違えると、苦手なコースになりうるが、一歩間違えると、危険すぎるということになりかねない」
 という理屈に似ている。
「交わることのない平行線」
 それを描いているということになるのだ。
 子供の頃から、
「どうして、自分の力で手に入れたものでなければ、大切にできない」
 という発想があったのは、この紙一重という感覚があったからなのかも知れない。
 何に対して紙一重だったのか分からないが、その分からない理由というのが、
「背中合わせであるために、自分では、それを見ることができない」
 というもので、それも、ただの鏡ではダメであり、そこには合わせ鏡のような後ろからでも見えるものでなければいけないのだ。
 そもそも、自分の姿は、自分では、鏡のような媒体がなければ、見ることができないというものではないだろうか?
 紙一重というものは、あくまでも、ニアミスであって、平行線であれば、重なることはありえないのだ。
 逆に、背中合わせであれば、最初から背中はくっついているわけで、ただ、その場合、お互いを見ることはできない。
 しかも、目の前で起こっていることを、同じ視線から絶対に見ることができないということで、あまりにも見ているものが違うという意味で、紙一重と背中合わせでは、一長一短が存在し、結果的に、
「似て非なる者」
 ということになるのではないだろうか?
 自分の力で手に入れるものを大切にするということは、
「何事に対しても、一生懸命にしよう」
 という気持ちが、他人よりも強いということであろう。
 そのために、どこかに、気持ちの上で、
「遊び」
 のようなものを持っておきたいという気持ちから、その反対である、他人から与えられたものであったり、押し付けられたりしたものに対しては、どうしても、おろそかになってしまうということが考えられる。
 この性格をうまく利用されて、不利になったこともかつてはあった。
 それにしても、
「よく、俺のこんな性格を分かったものだ」
 と感じたが、案外、自分で感じるよりも、他人の目から見た方が、正解をとらえているのかも知れないということなのかも知れない。
「人の振り見て我が振り直せ」
 ということわざがあるが、まさにその通りなのだろう。
 しかも、それを分かる人というのは、自分と紙一重のところを見ているのかも知れない。ひょっとすると、そのあたりに、その人の紙一重なところが、まるで蜃気楼のように映っていて、それをまやかしだとは思わずに、まさしく、その人の性格に違いないと思い、紙一重なだけに、信じて疑わない自分にも、酔ってしまうところがあったりするのではないだろうか?
 そんなことを考えてみると、紙一重というものの恐ろしさが分かってくるというものであろう。

                 言い訳

 大学時代の友達の中で、一番気が合っていたにが、梅林和也という男だった。
 お互いに、相手のことがよく分かっていたというか、気が合っていたといっても、
「気持ちが通じ合えた」
 というわけではなく、どちらかというと、
「相手の考えていることがよく分かる」
 というものだった。
 梅林は、自分からは言わなかったが、感じている思いは、お互いに一緒だったことだろう。
 二人の間には、
「阿吽の呼吸」
 というべきか、それとも、
「以心伝心」
 といえばいいのか、相手の行動を見ていると、相手が何を考えているのかが分かるのだ、
 だからといって、
「親友になりたい」
 というような相手でもない。
作品名:一足す一は? 作家名:森本晃次