一足す一は?
なるほど、野球などでも、ピッチャーがバッターを攻める時の攻略法として、
「苦手なのは、得意なコースのすぐ近くにある」
と言われたりしているのをおもいだしたりする。
ただ、
「だからといって、一歩間違えると、相手の得意なコースに投げてしまって、打たれる可能性もかなりある」
とも、言えるだろう。
これも、
「長所と短所は紙一重」
ということと同じ意味なのだろうが、ここでもう一つ対になる言葉として、
「長所と短所は、背中合わせ」
とも言われている。
それが、紙一重という言葉とのかかわりになるのだろうが、
「背中合わせと、紙一重」
ある意味、同じことを言っているように見えるが、会話の合間に入ってしまうと、正反対の意味に受け取られがちになってしまう。面白い現象だと言えるのではないだろうか?
ただ、この場合は、比較しているものが、相対しているものであるので、捉え方によっては、違った意味にも見られるし、距離が近いと思っていても、実際には遠くに感じられるのは、
「見えているようで見えていない」
という、
「路傍の石」
という感覚に似ているともいえるのではないだろうか?
まるで、SFの世界のように感じるのは、桜沢だけであろうか?
こういうことを考えている時に、頭の中に浮かんでくるのは、
「メビウスの輪」
であった。
実際には理論的には不可能に感じられることが、実際には起きているというのだから、想像することは難しいだろう。
たまに、絵に描いて説明しているのをネットなどで見ることもできたが、その内容がどのようなものなのか、その時は納得したはずなのに、時間が経って、その間に別のことが入り込んでしまうと、その納得したはずのことが、分からなくなってしまう。
「納得なんかできるはずのないもののはずなのに」
と、納得できたことに対して、疑問があるものだから、忘れてしまったことの方が信憑性があって、なぜ納得できたのかという方が疑問なのだ。
そう考えると、
「長所と短所は紙一重だ」
ということも、その裏に潜んでいる、
「背中合わせだ」
というキーワードを意識するから、納得できたのかも知れない。
ということは、
「メビウスの輪を理解できたのも、その時に、何か、相対する理屈を頭に思い浮かべた時、それまで繋がっていなかったことが、急に繋がって見えたのかも知れない」
と感じた。
それは、夢のような感覚に近いのではないだろうか?
納得できないことに直面した時、無意識のうちに、理解できている時があるが、その時は、何かひらめくものがあって、理解できているのだろう。それが夢の世界であり、現実世界に戻ると、そのひらめいたことが、現実にそぐわぬことであり、何かの力によって、記憶から消し去るという魔法を掛けられるのかも知れない。
それなのに、
「どうして、一度は自分に理解させるようなことをしたのだろう?」
と、その力が、夢から来ているものだと思うと、夢は、
「自分に対して、力を与えているのだが、それはあくまでも、夢側の都合であって、夢側の都合が悪くなったりすれば、記憶から消し去ることになっているのかも知れない」
と思うのだった。
逆に、夢というものは、忘却ありきで見るもので、本来は、すべてを忘れ去るはずのものが、夢を見ている自分の意識がたまに勝ることがあり、忘れきれずにいるのかも知れない。そう考えると、
「夢はたまに見るものではなく、毎日見ているもので、忘れることができるかできなかったかということによって、覚えていると考えるのではないだろうか?」
と考えるのだった。
「夢のメカニズムというのは、どうなっているんだろう?」
と考えることが多い。
確かに、覚えている夢というのは、怖い夢が多いような気がする。それは、
「夢というものが、本当に怖い夢しか見ることができないというものなのか、それとも、いろいろな種類の夢を見ていて、たまたま覚えているのが、怖い夢だというだけではないか?」
という思いに至るのであるが、この場合の、
「たまたま」
というのは、少しおかしいのではないだろうか?
単純に、覚えている覚えていないというだけであれば、偏った記憶になるというのは、その時点でたまたまではないのではないだろうか?
偏っているという考え方も、どこかおかしな気がする。自分の中で、覚えている夢に、怖い夢が多いという先入観があることから、
「偏っている」
といえるのであって、感じ方を少し変えれば、別に偏っているというわけでもないのではないだろうか?
覚えている夢が、見た夢のどれくらいに当たるのかということは、そもそも、どれだけの夢を見たのかということが分からないだけに、比較のしようがないというものである。
覚えている夢が、10個あったとして、実際に見た夢が、100なのか、20なのかで、まったく違った発想になってしまう。
これを、前述の加算法、減算法で考えたとしたならば、
「加算法であれば、少しずつ積み重なるもので、ゼロとマイナスはありえない。少しずつ積み重なると、20くらいになるだろう」
と考え。
「減算法であれば、まず、一気に減算しまい、残った部分から、精査することによって、残りがいくつになるのか、どれだけ減っても、限りなくゼロには近くなっても、ゼロになることはないだろうと思うと。元は100くらいだったのではないか?」
と考えるのだった。
小学生の時、夢をどのように考えていたのかを思い出していた。
あの頃は、怖い夢を覚えているという意識はあり、
「怖い夢って、その中でも一番怖いのは何だったのだろう?」
と考えていた。
いつだったか、こういうことを考えている時というのは、普通は、結論など見つかるわけはないのだったが、その時は、
「怖い夢というのは、もう一人の自分を夢の中で感じた時だ」
と、ハッキリ感じられるようになっていた。
もう一人の自分は、気配でなのか、夢を見ている自分の存在に気が付いているようだった。
しかし、姿が見えているわけではない。気配くらいは感じるのだろうが、時々、思い立ったようにキョロキョロしている。
その相手が見えているわけではないのに、気が付けば、夢を見ている自分と目が合っているように思えるのだ。
合っている目は、こちらをまったく意識していない。まるで、こちらが、路傍の石で、相手が、石を意識することなく見ているというような感覚ではないか。
目と目が合っているのに、相手がこちらを意識しないというのが、どういう感覚なのかというのを、初めて感じることができた。
夢の中での感覚だとはいえ、
「路傍の石の感覚というものは、本当に恐ろしいものだ」
と考えた。
「なるほど、これだけの恐怖であれば、夢という特別な世界に、意識して登場したとしても、無理もないことだ」
といえるのではないだろうか?
夢というものを、
「実に都合よく見えるものだ」
という感覚になるのだが、それはきっと、目を覚ます瞬間にあるのではないかと思うのだ。