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一足す一は?

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 どちらかというと、相手をけん制しているようで、緊張感が、他の人といるよりもあるせいか、結構疲れてしまうのだった。
 そういう意味では、本当は二人きりになりたくない相手だったのに、なぜか、二人きりになることが多かった。しかも、それは偶然ではなく、気が付けば二人きりになることが多く、考えてみれば、
「皆といたとしても、そこには結局、二人だけの世界を作ることになったのかも知れないな」
 と桜沢は感じたのだ。
 きっと梅林もそう思っているのは分かっている。
 お互いに、自分の考えていることの奇抜さや、その奇抜さをどこまで自分の中で封じ込めておけるかということを考えても、結局封じ込めることができずに、違う形で表に発散させることになるのだった。
 しかも、お互いに不器用なようで、まわりの人に気を遣っているくせに。気が付けば嫌われるようなことをしてしまっていたのだ。
 桜沢の場合は、
「他人と同じでは嫌だ」
 という考えがあるから、抑えきれない思いを、違う形で発散させてしまうので、まわりからは、疎まれているようだった。
 だた、梅林の場合はそうではない。
 彼も自分の気持ちを抑えきれずに、持て余しているようだったが、彼の場合は、なるべくうちに籠めているようだった。
 そのあたりが、それぞれに性格的に違っているところであるが、梅林にとって、桜沢のことを意識しているのは分かるのだが、考えていることの奥底までは、さすがに分からなかった。
 そう思っていると、桜沢も、自分がどこまで分かっているのかということも、次第に自信がなくなってきていた。
 自分のことがよく分からないのは、しょうがないと思っている。
 自分のことは、鏡などの媒体を見ないと、決して見ることができないということで、自分で自分が分からないのは当然だと思っている。
 だから、桜沢は他人を見るのだ。
 他人が自分をどのような目で見ているかというのを感じ取ることで、それを見て、自分の性格を見る。
「人の振り見て我が振り直せ」
 というよりも、
「人の目を見て、自分を知れ」
 ということに近いのだと思うのだった。
「まるで、コウモリのようではないか?」
 と感じる。
 コウモリというと、
「暗い洞窟の中で暮らしていて、目が見えないために、自分で音波を出して、その反射で、まわりの状況を知る」
 というものではないか。
 梅林という男は、結構人に自分のことを話す方だった。そこが、桜沢との一番に違いであるが、それ以外は、ほとんど性格的にというよりも、性癖にといえばいのか、似たところがある。
 ここでいう性癖というのは、
「性的なこと」
 というわけではなく、どちらかというと、行動パターを伴う、考え方というところであろうか?
 ほぼ、桜沢が感じたことを裏切らない行動パターンだといってもいい。
 それなのに、たまに、梅林のことが無性に怖くなることがある。
「分かっているからこその恐ろしさというのもあるのではないだろうか?」
 とも考えられた。
 自分が相手のことを分かっているのと同じで相手も、こちらのことを分かっている。そう考えると、
「お互いに分からない者同士の戦いと、お互いに分かっている者同士の戦い。どっちが恐怖を感じることになるんだろうか?」
 と考えてみた。
 どちらとも言え売が、前者が探りながらのもので、後者が、アグレッシブな戦いになりそうな気がした。しかし、よく考えてみると、そうでもないような気がする。
「手の内が分かれば分かるほど、相手に攻めにくくなり、身動きができなくなってしまうのではないだろうか?」
 と考えるからである。
 お互いに守りに徹する人間同士の戦いと、攻めに徹する人間同士の一騎打ちということになると、その戦い方が難しくなってくる。
「相手のことをよく分かっている」
 というのが、果たしていいことなのかどうなのか? 難しいところなのではないだろうか?
 桜沢は、高故意時代までに、人のことが分かるという感覚を味わったことがなかった。
「人が何を考えているかなんて、神様でもない限り、分かるはずなどない」
 と思っていた。
 だから、逆に、人からも自分のことを分かるはずがないとタカをくくってきたのだが。人のことを分かるというのは、一歩間違えると、自分の命取りにもなりかねないということだ。
 それこそ、
「一つのかごの中に、二匹のサソリを入れるようなものだ」
 ということになるのだろう。
 それは、
「お互いに、相手を殺すことはできるが、相手に殺されることも、覚悟しなければいけない」
 ということを意味しているのである。
 それは、よく、
「核の抑止力」
 という話の時に、たとえ話として出てくるものであった。
 核兵器というものがいかに恐ろしいか。それは、
「報復がある」
 ということである。
 こちらが、一発打ち込めば、相手も報復で打ち込んでくる。もうそうなると戦争は別の形になってしまうのだ。
 戦争というのは、できればしたくはない。そのために、戦争を始める前から、和平協定を行っていて、万が一戦闘が始まっても。必ず、どこで矛を収めるかということを模索するようになる。
 そのためには、先手必勝で、ある程度有利に戦闘を勧め、その余波を買って、いかに都合のいいところで戦闘をやめるかというのが問題なのだ。
 つまり、最初に一気に攻めて、相手を攻略すれば、
「相手が、戦意を喪失するかも知れない」
 と考える。
 そして、有利に和平交渉を進めるかというのが、先の大東亜戦争の戦争目的だったのだが、あまりにも緒戦で勝ち続けたので、矛を収めなければいけない時期を見失ってしまったのだ。
 日本政府には昔からそういうところがあり、シナ事変でも、和平が成立しそうなところで、相手に条件を厳しくしたことで、せっかくの和平の機会を逃してしまった。それが、大東亜戦争のきっかけになったと言えるだろう。
 お互いに、攻めに徹することに長けている場合、お互いが、防御にはある程度目を瞑って攻めに徹するというのも、一つの考えである。
「攻撃は最大の防御」
 というではないか?
 しかし、この言葉もその意味をしっかりと分かっていなければ、まったくの無駄になってしまう。
 つまりは、同じ攻撃をするのでも、相手のペースに合わせてしまうと、お互いに先に進めなくなって、持久戦に入ってくる。持久戦というのは、ある意味、
「守りの戦い」
 でもあるのだ、
 一旦、持久戦に入ってしまったら、
「お互いに相手と同じことをしていては、埒があかない。かといって、先に動いてしまうと、相手の思うつぼに嵌ってしまう」
 ということになりかねないではないか。
 持久戦ほど、身動きが取れない。あるいは金縛りに遭って動けないということになるであろう。
 突破口を開くには、
「相手を先に動かす」
 という戦法もあるだろう。
 こっちが、先に動くと見せかけて。相手に、先制攻撃の機会を与えることで、逆に別動隊が後ろに回って、挟み撃ちにするという手段だってある。
 かつて、戦国時代に、薩摩の戦法に、
「つりのぶせ」
 というものがあった。
作品名:一足す一は? 作家名:森本晃次