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一足す一は?

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「好きなものには一生懸命になるが、嫌いなものであれば、まったく力を入れず、いわゆる、手を抜く」
 という性格だからである。
 とにかく、好きなものだけを一生懸命にやっていれば、それいいという考え方であり、嫌いなものには、手も出さないというのは、それだけ、自分の中で、好きなものと嫌いなものを差別して扱っているということである。
 この性格は、まわりから見ると、欠点しか見えていないように見えるが、果たしてそうなのだろうか?
 確かに嫌いなものと好きなものを差別するというのは、いけないのかも知れない。しかし、世の中に、
「嫌いなものは一つもなく、好きなものだけしか存在しない」
 などという、神のような人はいないだろう。
「嫌いなものも少なからずに存在するが、好きなものも結構多い」
 というのが人間であろう。
 確かに嫌いなものが少ない方が、人間は幸せなのかも知れないが、何もそれを無理に克服する必要はないだろう。
 例えば、食べ物などで、他の人が結構好きなものを嫌いだったりすると、親は、まわりのことを考えてか、嫌いな食べ物を克服させようとして、強引に食べさせようとすることがある。
 しかし、食べ物によっては、それは好き嫌いなどではなく、
「身体が受け付けない」
 というのもあるのかも知れない。
 一番危なくて、大人が気を付けてあげなければいけないのが、
「アレルギーのある食物」
 であろう。
 今は、結構、
「食の安全」
 ということが言われるようになって、メーカーの表記義務もハッキリしてきた。
 賞味期限は、消費期限などは当然のこととして、アレルゲン表記、さらには、産地表記など、特に生鮮食品や、日配関係には、うるさく言われるようになってきた。
 これは、20年以上前だっただろうか、食品メーカーによる、ラベルの表示の問題が、社会問題になったからだった。
 ひどいところは、賞味期限を偽装したり、普通であれば、信じられないような管理をしているところが、一つ見つかれば、あれよあれよという間に、1カ月の間に、5,6社も発覚したりしたものだ。
 それだけ皆が、疑うことなく信用していたということなのか、それとも、一つが見つかれば、他のメーカーでも、
「さすがにまずい」
 と思いながら、過去に事例がないことで、下手に明かすと自分がどうなるか分からないということで、黙っていたのだろうが、一か所が摘発され、問題が想像以上に大きくなり、そこから、他の会社でも見つかったりすると、
「うちも時間の問題だ」
 ということで、マスゴミにリークするなどの、内部告発のようなことも結構あったに違いない。
 そうなってくると、歯止めが利かなくなってくる。それだけ、どこでもやっていたということなのだろう。それまで、疑うこののなかった消費者が、今度は疑ってしか見なくなると、どんなに気を付けていても、もうその会社の商品は誰も買わなくなる。そして、そのうちに、消費者の間で、
「何を信じていいのか分からない」
 という疑心暗鬼を産むことになるのだった。
「一つが出てくると、5件は似たようなことをしているところがあるだろう?」
 と、まるで、ゴキブリを発見した時のような感覚だ。
 だが、そんな時に、隠そうとすればするほど、ボロというものは発覚するものであり、逃れることはできなくなる。だから社会問題となるわけだが、問題は、マスゴミによって、必要以上に煽られてしまうことであった。
 好きなものと嫌いなものというような、両極端なものが、えてして人間には備わっているようだ。例えば、
「長所と短所」
 などというのも、その一つではないだろうか?
 長所と短所は、これも、好きなものと嫌いなものと同じように、片方だけという人間はいない。
 しかも、どちらも複数存在している、好きなものも嫌いなものも、複数あるわけだし、長所と短所も複数あるわけだ、
 そして、もう一つ言えることは、
「それぞれには、中間というものが存在し、その中間が、すべての中での大半を示している」
 といえるのではないだろうか?
 好きなものを中心として見れば、
「好きなもの以外は、すべて、嫌いなもの」
 となり、逆に、嫌いなものを中心として見れば、
「嫌いなもの以外は、すべてが好きなものだ」
 というわけではないだろう。
 しかも、例えば好きなものから見た場合に、中間層がたくさんありすぎて、嫌いなものが、思っているよりも遠くに見えてくるのではないだろうか? まるで宇宙のような、まわりに何の建設的なものがない世界では、距離がそのまま感覚に結びついてしまう。
 つまり、本当はもっとたくさん嫌いなものがあるはずなのに、中間層を意識していないことで、それほど遠くに見えていないつもりでも、実際に錯覚という形で遠くに見えてしまう。
 それが、遠近感を狂わせてしまうことになり、それを元に戻そうとすると、必要になるのが、バランス感覚である。
 しかも、宇宙のようなところで、遠近感を持つことができない感覚となると、バランス感覚が致命的に狂ってしまうのだった。
 そのことが、元々意識していない中間層を、ないがしろにしてしまい、自分の中で、好きなものと嫌いなものという目に見えているものだけに注目してしまうことで、見えるものも見えなくなってしまうのではないだろうか?
 それが、
「長所と短所」
 という、両極端なものに見えてくるようになり、さらに中間層というものを、まるで。
「路傍の石」
 のように見せてしまうのではないだろうか?
 道端に落ちている石というのは、見えているのに、誰にも意識されることはない。
 つまりは、こっちらが意識していないことを、相手も分かっているのかどうか、分からないということにもなるのだ。
 ただ、目の焦点がそこに行っているだけで、目が合っているわけでもないのに、相手だけが、こちらに見られているという意識をすることで、相手にプレッシャーをかけることができる。
 しかし、実際に意識して見ているわけではないので、相手は、
「なぜ、自分が意識されるのだ?」
 ということで、必要以上に意識をしてしまうということだろう。
 だが、相手も、こちらの意識がないものだと分かると、すぐに安堵するものだろう。しかし、逆にいえば、意識もしていないのに、人を見つめるということに、自分という存在がまわりの人間に対してどういう意識を与えているのかということを考えると、恐ろしくなってくる。
「何もしていないのに、相手は意識もしていないのに、なぜか、注目される」
 と考えると、
「自分の中に、人を引き付ける何かがあるのか??」」
 というポジティブな考えであったり、
「何もしていないのに、警戒されたり、悪いことを企んでいるかのような詮索を受けてしまう」
 ということになったら、最悪ではないか。
 人を引き付けるというのは、ポジティブに考えるから、いい方に解釈できるのだが、悪い方に考えてしまうと、
「何もしていないのに、悪いことをしているかのように、勘ぐられてしまう」
 ということにもなりかねない。
 そんなことになったりすれば、一大事である。
「長所と短所は紙一重だ」
 というではないか?
作品名:一足す一は? 作家名:森本晃次