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一足す一は?

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「批判するのであれば、代替え案があるんだろうな?」
 と言われると、そんなものは何もない。
 ただ批判していればいいとでも思っているのか、それこそ、自己満足でしかない。まるで、自分のためだけの自慰行為にすぎないではないか。
 要するに、減算法は、そんな二つが減算していくだけであって、決着がつかずに、結果、最期には、
「0対0」
 になるのだ。
 結果は、減算法も、加算法でも同じことであり、結局どちらも中身がないということで、それでも決着をつけるとすれば、その方法というのは、選挙のような多数決しかないということで、
「史上最低の勝負」
 といってもいいだろう。
 最近では、まったく信用できない、政府や政治家のことを考えると、加算法でも、減算法でも、結局どちらも、0対0という結論しか出ないように思うのだが、果たしてそうだろうか?
 一つ考えているのは、
「果たして、減算法にした場合に、必ず最後は0になるのだろうか?」
 ということであった。
 何が言いたいのかというと。一つ考えているのは、
「合わせ鏡」
 の発想である。
 合わせ鏡というのは、自分の前後、あるいは、左右に鏡を置いた時、一つの鏡に視線を合わせると、まず、鏡には、自分がそのまま、いや、左右対称という形で写っている。
 すると、自分の後ろには、もう一対の鏡が映っているわけで、その鏡には、反対側の、つまり、顔は反対側を向いているので、後頭部が映し出された自分が写っているはずである。
 そうなると、その鏡には、自分の正面には自分が見ている鏡があって……。
 というように、どんどん、
「鏡に映っている自分の姿が、どんどん先の方まで見えていることになり、鏡に映った自分が、理論上、繁栄強敵に見えていることになる……。
 そんな現象を、
「合わせ鏡」
 というのであって、その状態を考えていると、もう一つ思い浮かんでくる発想が、入れ子になっているという意味で、ロシアの民族工芸としての、
「マトリョーシカ人形」
 を思わせるのだ。
 マトリョーシカ人形というのは、一つの人形があって、その人形は、側面が開く形で、正面と背中を残して、パカッと割れる形になっている。
 その中にも、また別のデザインの少し小さな人形が入っていて、さらに、その人形も、中が割れるようになっている。
 つまりは、これも同じように、まるで、
「親があって、子があって、孫がある」
 というような感じである。
 しかも、どんどん小さくなるわけだが、これは理屈から考えると、ゼロになるということはないのだ。
 それは、数学の理論を考えれば、おのずと答えが出るもので、
「割り算をして、0になるには、元の数、つまりは、分子が0でなければありえない」
 といえるのだ。
 逆に、0から何を割ったとしても、0でしかなく、そもそも、分子が0の割り算というものは、元々が矛盾した計算でしかないような気がするのだ。
 そうやって考えると、どんどん小さくはなっていても、到達する先は、
「限りなくゼロ」
 に近づくだけだ。
 ということになるのではないだろうか?
 マトリョーシカにしても、合わせ鏡にしても、ゼロにならないのだとすれば、減算法というものが、マイナスの域になることはないことを考えると、
「引き算ではなく、割り算なのではないか?」
 と思うのだ。
 かたや加算法は始まりは、0からであって、後は増えていくだけではあるが、加算するものがなければ、0でしかない。
 どこまでいっても0でしかないのであれば、
「加算法と減算法が、どこかで交わることはないという理屈も可能性としては、まったくないわけではない」
 といえるのではないだろうか?
 そんなことを考えていると、
「加算法には上限がなく、減算法には、マイナスや0はありえない」
 ということになるのではないだろうか?
「オール・オア・ナッシング」
 という言葉がある。
 スポーツのプロリーグなどで使われたりするが、ここでは、
「すべてか、無か?」
 という意味での言葉として考えてみる。
 要するに、
「0か100か?」
 ということになるのだが、では、1から、99までは、どちらになるのだろうか?
 これは、この言葉をどう解釈するかによって変わってくる。逆にいえば、
「考え方によって。どうにでもなる」
 ということではないだろうか?
 トップを中心に考えるのであれば、
「100でなければ、0」
 ということになる。
 しかし、果たしてそれでいいのだろうか?
 0と1の間には、
「有と無」
 という結界のような大きな壁がある。
 しかし、99と100の間に、何か結界のようなものがあるだろうか?
 もしあったとすれば、それは、その人が勝手に作った解釈ではないだろうか?
 あくまでも、桜沢の考え方の中では、
「あるなしの法則」
 というものがある。
 0と1との間での葛藤はその時々だけではない。電球であれば、光が灯っている時と、消えている時、その状況を把握するのに、見えていないはずの結界が、どこかにあるのだろう。
 そんなことを考えた時の、
「合わせ鏡やマトリョーシカ人形のように、減算法では、限りなくゼロに近づくことはできるが、絶対にゼロになったり、マイナスになったりはしないのだ」
 つまりは、
「ゼロや、マイナスという、普通に考えれば出てこない発想は、減算法によって、証明されている」
 といえるのではないだろうか。
「加算法であっても、マイナスは考えられない。ゼロから始まって、上しか見ないわけだから、ひとたび始まってしまうと、ゼロに戻ること、ましてや、マイナスになんかなりっこないのだ」
 そういう意味で行けば、
「加算法と減算法は、少し角度を変えれば、結果は同じなのだ」
 といえるのではないだろうか?
「どちらから考えても、梱包の中にあるものが違っていなければ、辿り着く道は、おのずと同じところにやってくるのだ」
 といえるのではないだろうか?
 そんな。
「あるなしの法則」
 を考えていると、
「負のスパイラルがあるのであれば、プラスのスパイラルも存在するのではないか?」
 と思えてきた。
 結論が同じだとして、考え方もさほどに違わないとなると、それは自然な流れの中での同一性だと考えると、本来であれば、違う時間のものを一緒に考えるということであり、結果として、同じところを同じ次元で進んでいるのだから、同じ発想になるというのは、ある意味、思考の矛盾が存在しているのではないかと思うのだ。
「あるなしの法則」
 というものが、
「出てきた結論を重視するのか、それとも、起点と過程を重視することで変わってくると思っていたが、そうではない。どれか一つに焦点を当て、それぞれのパターンを見ていくという、ある意味オーソドックスであるが、画期的な考えであると思うと、
「原因、経過、結論」
 と、それぞれに同じものが存在しているということになるのだろう。
「あるなし」
 で考えるということは、そういうことなのだ。

                 長所と短所

 桜沢は、自分の性格を決して好きではなかった。
作品名:一足す一は? 作家名:森本晃次