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一足す一は?

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 そんな軍事施設を建設するのに、名手ともなれば、当然、いろいろな大名から、引っ張りだこになるのは目に見えて分かるものだ。
 しかも、彼は主君を変えながら、築城の技術を身に着けていったわけなので、これこそ本当の、
「スキルアップのための天職」
 ということの手本とすべき人物なのかも知れない。
 ただ、計画もなく、ただ、
「辛いから」
 というだけで転職するのは、それこそ、無謀だといってもいいのかも知れない。
 そんな転職と同じことが、転居にもあるということである。
 転居してしまった先で、もし、隣に腹が立つやつがいるとして、果たしてどう考えればいいのだろうか?
 考え方としてはいくつか考えられ、その考えた先でも、さらに分岐点が見えてくる。まるで、性格判断による、あみだくじ方式のようなものではないか?
 隣に腹が立つやつが住んでいたとして、最初に考えることは、
「文句を言いに行けば?」
 という発想もあるが、それは、逆恨みを考えるとなかなか難しい。
 だとすれば、
「管理人に言えばいい」
 というのもあり、たぶん、一番考えられる解決法とすれば、ここになるのかも知れないが、何しろ管理人は、部外者であることに変わりはない。
 こちらが興奮して文句を言ったとしても、相手はこちらの言い分を、いい加減にしか聞かないだろう。特に興奮などしていれば、却って冷めてしまう可能性もあり、相手に余計な勘違いをさせ、本当はしてもらいたいこととは違うことを相手にいってしまったりして、却って話がこじれてしまわないとも限らないだろう。
「では、引っ越してしまえばいいではないか?」
 と考えたとしようか?
 そうして、またしても、引っ越し業者を雇ったり、自分で荷造りをしたり、会社を休むことになったり、転入転出届を出したり、などと細かい手続きも含めると、引っ越しというのは、一大イベントになりかねない。
 会社の転勤によって、引っ越しを余儀なくされる場合であれば、会社が休みをくれたりするだろうが、自分の都合での転居に、会社はまったくかかわりを持たない。逆に、
「自分の都合で、仕事に支障をきたしたりのないように」
 と言われることだろう。
 そんな煩わしい思いをして、何とか引っ越しを終えたとして、今度は、隣の人が、本当に静かな人なのかという保証はないだろう。
「短い期間で引っ越しを繰り返し、結果、よくもなっていないのだから、この引っ越しは失敗だった」
 ということになりかねない。
 引っ越しをするのもただではない。かなりの出費を覚悟する必要がある。
 そして、後悔するのだ。
「ひょっとすると、前の部屋に我慢して住んでいれば、隣の人間は、そのうちに引っ越したのではないか?」
 と考えたりもする。
 今回引っ越してきた先で同じような人間が隣にいたとして、その人も、最近越してきたばかりだったりすれば、隣が動く可能性は明らかに低いだろう・
 だが、もし、隣が引っ越して行ったとして、一時期は静かになるだろうが、そのうちに、隣にまた誰かが入ってくるかも知れない。
 その人がさらにうるさい人である可能性は、
「あるなし」
 という考えでいけば、五分五分なのだ。
 そういう意味でいけば、可能性のほとんどは、あくまでも可能性という考え方でいくならば、それは、平等に考えるべきである。
 ということは、すべてにおいて、五分五分だと考えれば、
「そもそも、どちらを選択するか?」
 というのは、博打のようなものであり、運でしかない。
 そういう意味でいけば、後はその人の性格的な問題なのではないだろうか?
「ここで動いて、結果、動かない方がよかったのが分かった時の後悔と、動かなければ気が済まないという性格を持ち合わせているとすれば、どっちがいいということになるのであろうか?」
 と考えれば、
「最初に動くか動かないか?」
 というそれだけのことになる。
 下手に動けば、
「負のスパイラルを産んでしまう」
 と考えるのであれば、動かない方がよくて、自分なりに、いかに問題を大きくしないかということを、冷静になって考えるべきではないだろうか?
 それが、ギャンブル的な考え方をするか、それとも、可能性の問題を冷静に考えるかということになってくるのだろう。
 まるで、コンピュータのようではないか?
 コンピュータというのは、0と1の数字しか持っていないという。
 つまり、オンオフだけの問題であり、それが複雑に絡み合ったとしても、最終的には、オンオフの組み合わせでしかないのだ、
 そういう意味では、すべてにおいて、五分五分の考え方というのは、当て嵌まるというものだ。
「天邪鬼」
 というものがあるが、これは、
「普通の人と、いつも正反対の選択をする」
 というイメージであるが、
「そもそも、普通の人というのは、どういうことなのだろう?」
 民主主義の考え方は、当然のように、多数決である。
 相手が0であっても、一人しか差がなかったとしても、
「多い方が勝ち」
 なのだ。
 そのため、少なかった方の人の意見や考えは、基本的には握りつぶされることになる。選挙などで、一票差であっても、多い方の勝ちは勝ちなのだ。
 だが、一歩間違えれば、すべてが逆になっている可能性がある。その一票が、
「何かの間違いで、無効票だったら?」
 あるいは、
「勘違いして、違う人の名前を書いていたとすれば」
 それによって、当選者が変わってしまう。
 最初から、投票する人を誰にするか決めていた人は、それほど変化はないだろうが、投票場に行ってから決める人は、誰にするというのだろう?
 ひょっとすると、その場で立候補者の顔を見て決めるのかも知れない。特に今の時代のように、政党が信じられないと、その傾向は強いだろう。
 今の選挙であれば、
「消去法しかないだろう」
 加算法だったら、いいところを探そうとしても、ないものをどうやって探せばいいのか、
「0対0では、勝負にもならない」
 といえるだろう。
 逆に、嫌なところは山ほどある。まずは、与党を考えてみれば、たぶん、最初に感じた嫌なことで、当選ラインを一気に下回るに違いない。
 それは、野党も同じことで、基本的に、批判しかせずに、
「恰好いいことを口では言っているが、やっていることは、やくざも同じ」
 という、まるで弁護士のようではないか。
 弁護士の仕事は、
「依頼者を守ること」
 である。
 それが、どんなに人の道に離れていようが、法律的に間違っていようが、優先されるのは、依頼者の守秘である。
 法律に逆らえないからといって、依頼人を裏切ったりすると、弁護士としては終わりである。
 つまり、いかに卑怯と言われようが、依頼人の意思にそぐう仕事ができた人間が、
「優秀な弁護士」
 となるのだ。
 政治家は、もっとひどい。自分の保身のためには、仲間だって平気で裏切る。悪いことをしていて、バレそうになると、誰かに責任を押し付けて、自分は生き残りを図る。まるで、人柱のようではないか。
 それが今の与党であり、そんな連中を政治家として倫理的に許してもいいものなのだろうか?
 かといって、野党は、そんな与党を批判するだけである。
作品名:一足す一は? 作家名:森本晃次