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一足す一は?

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「反抗期というのは、一つの段階があるのではなく、子供の頃に何度か訪れるものであり、思春期の時に感じる反抗期が一番強いこともあって、他での反抗期を意識から消そうと考えるのではないだろうか?」
 というものであった。
 反抗期を一度だと思うから、そもそも、反抗することよりも、反抗期に突入する時の感情の方が大切だと思うからだ。
 そんな感情が、何度も、しかも定期的に迎えるというのであれば、反抗期自体の存在が、薄くなってくると思うと、この理屈も、まんざらでもないというものであろう。
 小学生の頃に限らず、お金をもらえるのは嬉しかった。お年玉などのように、ハッキリとして貰い物であれば、嬉しいのだが、毎月のお小遣いは、いうほど、嬉しいとは思わなかった。
 サラリーマンになってから分かったことであったが、その頃から気づいていたとは、実際に思っていなかったのだが、毎月のお小遣いというのは、サラリーマンにおける、給料のようなものではないだろうか。
 確かに最初の1,2回は新鮮で嬉しいものだが、毎月の会社への奉仕でもらうものであって、
「あって、当たり前」
 という意識の方が強くなってくる。
 特に、最初の半年や一年は、研修期間という意識が強く、
「言われたことをしている」
 あるいは、
「覚えることがたくさんあって大変だ」
 という意識から、貰う給料も、
「自分で稼いだ」
 という意識とは、かなり違ったものになっているような気がするのだ。
 確かに仕事をしていると、
「働いている」
 という充実感がなければ、いくら代価としての、給料がもらえたとしても、満足感がなくて、正直、やりがいはない。
 やりがいというものが、仕事を楽しいと思わせてくれるのだとすれば、給料だけでは、満たされない何かがあるということであろう。
 奉仕、さらに、そのために、会社から受ける、いろいろな束縛、例えば、仕事時間中の拘束であったり、集中させるために、仕事中に、
「飲食はダメだ」
 とか、
「音楽を聴いてはいけない」
 などということは、当たり前のようになっていて、会社が作成する就業規則にさえ、当たり前すぎるということで記されていないレベルのものである。
 確かに、一般的には、物を食べながらの仕事であったり、音楽を聴きながらなどということであれば、集中力が落ちてしまい、コストパフォーマンスが落ちるのではないだろうか?
 それを考えると、当たり前のことなのかも知れないが、中には、音楽を聴いていた方が、集中できる人もいるかも知れない。
 それは職種にも、その人の性格にもよるのだろうが、今の世の中では、少し時代錯誤にも思えてくる人は、結構いるのではないだろうか?
 そんな束縛を受けながらの仕事で成果を上げるということでの給料だということであれば、
「もっと貰ってもいいのではないか?」
 と思う人も少なくはないだろう。
 そんなことを考えていると、毎月の給料というのは、
「生活するうえでの最低限のお金」
 ということであり、さほど嬉しいものではなくなってしまっていた。
 それでも、半期に一度のボーナスは嬉しいもので、1か月分もないとしても、もらえるというだけで嬉しいものだ。
「ボーナスが入ったら、旅行に行ったり、何かを買おう」
 と思うに違いない。
 そのお金で買ったものは、本当に嬉しいものだし、大切にすることだろう。
 そもそも、桜沢は、ファッション系には、疎い方だった。
「ファッション系に、ボーナスは使いたくないな」
 という、もったいないという気持ちがあった。
 だから、給料で買えるくらいのものを物色し、ほとんど選ぶこともしない。
 もっとも、選ぼうとしても、何がいいのか、見当もつかない。いわゆる、
「ファッションセンスの欠片もない」
 と言ってもいいだろう。
 まわりからは、
「ファッションセンスがない」
 と言われても、別に恥ずかしいとは思わない。
 何しろ、その通りなのだからである。
 桜沢にとって一番大きな理由としては、基本的に子供服というのは、親から買ってもらったり、たまに、親せきの子の、
「おさがり」
 だったりする。
 特に、桜沢家では、親せきに2歳年上の男の子がいて、そこの母親と、桜沢の母親の中がよくて、よく、おさがりを貰っていたのだ。
 相手のおばさんとしては、悪気はなかったのかも知れない。母親としても、
「あげるというものを、無理に断ると、これからの親戚づきあいがうまく行かなくなるかも知れない」
 と思っていたが、それは、仕方のないことであり、やはり、下手に断ると、角が立つことになるだろう。
 それだけ、親せき、近所づきあいというのは、億劫なものなのだろう。
 あれは、いつのことだったが、確かまだ小学生の頃で、町内の子供会に入っていたことで、マンション住まいの桜沢は、年に2回、
「町内の、早朝掃除」
 というのがあるのだが、家族で参加するということは、ある程度強制的のようになっていた。
 時間的には、30分から、1時間程度のもので、マンションのまわりに落ちているゴミを拾ったり、溝に落ちているゴミを片付けたりなどが、主なものであるが、溝の掃除ともなると、大人の男性や、組長の仕事になる。それ以外に普通にゴミを拾ったりするのは、奥さんや子供が中心で、こういう時、子供会や父兄会などの集まりのために、顔を出している人は、人見知りすることもなく、素直に行動に移れるというものだ。
 しかも、たった、年に2回程度の、30分から1時間程度の掃除というだけで、その参加率はほとんどいない。
 そんなに大きなマンションではないので、20世帯ほどのマンションで、ほぼ入居しているとして、この日に、掃除があるということは、回覧板などで知っているはずなのに、実際に出てくる世帯は、多くて、5世帯くらいであろう。残りの15世帯は、まったく気にもしていないということだろうか?
 何と、そのうちに1世帯は、皆が表で掃除をしている時、旦那と奥さんと子供3人が出てきて、
「いるんなら、早く出てくりゃあ、いいじゃないか」
 と、ほとんど皆が思っているだろうが、
「まあ、遅れたとはいえ、出てきたんだから、大目に見てやろうか?」
 と思っているとして、その考えが、甘いということを次の瞬間、思い知らされた。
 3人は、横目で一度、ちらっと掃除をしている人を見ただけで、二度と見ようとはしなかった。
「3人が3人とも、同じようにこちらを一緒に見たというのが、何かを暗示しているような気がする」
 と感じたのだが、3人は、掃除に参加するために、出てきたのではなかったのだ。
 一度だけ、ちらっと横目で見ただけで、そそくさと、駐車場の方に向かっていく。そして、車に乗り込んで、エンジンを掛け、何事もなかったかのように、車を走らせて、そのまま、どこかに行ってしまったのだ。
 掃除の日だと分かっていたのかいなかったのか。結局、完全にブッチしているわけである。
 それを見ていた、街の行政に顔を出したことがあると言っていた人が、
作品名:一足す一は? 作家名:森本晃次