一足す一は?
しかし、人から、特に親から与えられたものに対しては、あまり関心がない。中学生以上になれば分かってくるというもので、与えられたものに、本人は、きっとそんなことはないと、どこか、少し高飛車な態度に感じてしまうことが、すべてではないと思うが、大きく影響を与えているという考えも間違いではないだろう。それが子供心に判断できるものなのか疑問であり。大人になって思い返した時に、却ってそう感じることが影響してきたのかも知れない。
だから、彼は、
「物を大切にする」
という意識に欠けているところがあった。
そんな桜沢少年に対して、親は、他の親が子供にいうように、
「ちゃんと片付けなさい」
「掃除をしなさい」
と言って叱りつけていた。
他の子供であれば、怒られれば、違和感なく、片付けもするし、掃除だってするだろう。心のどこかに、嫌々という意識があってもであるが、最初は桜沢少年も、嫌々ではあるが、掃除や片づけをしたものだった。
しかし、そのうちに、
「何でしなければいけないんだ?」
ということを考えるようになり、その理由がなかなか分からない、いろいろと考えていく中で、その結論が見つからないどころか、袋小路に入り込んでしまって、考えれば考えるほど、意味の分からないストレスが溜まっていった。
それがいつの間にか、トラウマになって、掃除や、片付けなどのように、
「しないといけないのだろうが、その理由がまったく分からない」
ということが次第に増えてきたように感じ、その理由をどこに求めていいのか、考えていた。
そうすると、考えられるのは、
「大人と子供の違い」
であり、
「子供の世界では許されることが、大人になると許されなくなる。そこには、大人になるという大きな結界を超えることになり、子供には分からなかった理屈が、大人になれば分からなければいけない」
という理屈に繋がってくるのだと思うのだった。
それでも、
「どうして、掃除をしないといけないのか?」
「片づけをしないといけないのか?」
という理屈の答えが見つからない。
「他の人は、理屈が分かっているのだろうか?」
と思うと、さらに、
「怒っていた親には分かっていたのだろうか?」
と考えてみると、別の理屈が頭をもたげた。
「親が怒りに感じているのは、子供がいうことを聞かないことへの苛立ちだと思っていたが、そうではない。大人になっても、理屈が分からないことに対して、子供がさらに言うことを聞かないという事実に、どうして子供なら許されることが、大人になったら許されないという理屈になるのかという大人というものが、もう許される範囲内から逸脱してしまっているのに、立場が変わった自分に、子供が逆らっていることに、羨ましさのようなものを感じている」
ということではないだろうか?
つまり、
「大人による立場から、子供なら許されるという立場にいるくせに、従わないということが許されない」
と思うのだ。
そんな子供が大人になったから、後悔するということを、せっかく教えているのに、子供は利く耳を持たない。
こうなってくると、子供に対しての怒りではなく、自分に対しての怒り。自分で理屈も分かってないくせに、それを子供に押し付けようとしている矛盾すらも、
「俺が悪いというのか?」
という自分に対しての怒りがこみ上げてくるのだ。
しかし、それは子供の頃の感情を忘れているからではないか。少し形を変えているのかも知れないが、基本的な考え方は変わっていない。
「自分の力で手に入れたものは、必死になって大切にするが、親とはいえ、与えられたものは、そこまで大切には思わない:
ということである。
「子供はお金を稼ぐ術を持っていないので、基本与えられるもので生活していくことになる」
ということは、子供が自分で生み出すものは、お金のかからないものであり、それが、彼には苛立ちの原因であったのだ。
だが、子供の彼には、自分の憤りがどこから来るものなのか、分かるはずもなかった。他の人は普通に素直に当たり前のこととして過ごしていることを、自分だけが、苛立ちを覚えている。
「何で、俺だけが、こんなにイライラしないといけないんだ?」
という気持ちが強く、その思いから、親や先生などの大人に対して、逆らうようになってきた。苛立ちを抑えるには、それしかなかったのである。
ただ、最初は、そんな思いが、さらなる苛立ちを加えていた。
「なぜなんだ?」
と思い、それ以上、苛立ちが増えるのであれば、必要以上の反発は、
「やめなければいけないか?」
と考えていたが、ある一定の時期を過ぎると、スーっと怒りが消えていったのだ。
それは、実に自然で、逆らうことをやめようとした自分をいさめているのではないかと感じるほどだったのだ。
「ひょっとすると、他の連中も、俺と同じように大人に対して、苛立ちを抱いていたが、最初の苛立ちが増えたその時に、逆らうということをやめたので、反抗することはなかったと言えるのではないか?」
と考えていたが、今でもその思いは間違っていないのではないかと思えたのだ。
思春期に入ると、
「反抗期:
というものが出てきたが、実は、これが最初なのではない。
もっと、小さい頃にあった反抗期、これは、皆のように、すぐにやめてしまえば、しばらくすると、子供の頃に反抗期があったことすら忘れてしまうのではないかと思うのだった。
だが、桜沢が感じたのは、そうではない。
「思春期における反抗期が発生するまでは、皆、過去の反抗期というものを覚えていて、思春期の反抗期が来た瞬間に忘れてしまうのではないだろうか?」
という思いを感じた。
ただ、その時期というのが、若干気持ちにバラツキがあり、
「二つの候補のどちらなのか?」
と聞かれると、どっちも五分五分のように感じられ、結論はでないのだった。
その時期というのは、最初に考えたように、
「思春期の反抗期に入った時」
というものと、もう一つは、
「反抗期など関係なく、思春期に突入したその時ではないか?」
ということであった。
ただ、ここでもう一つの疑問が出てきたのだ。この疑問というのは、最初の反抗期を忘れてしまう場合に、この二つを思い浮かべたからであって、
「思春期と同時期に襲ってくる反抗期というものは、そもそも、思春期と関係があるのだろうか?」
というものであった。
確かに、親がいつまでも、子ども扱いをしているのに、自分の中で成長が分かってきている場合、まるで、
「大人は何も分かってくれない」
という思いから、大人に対して、
「わかってほしい」
という気持ちから、反抗期が生まれるのだという考え方だ。
その理屈が一番信憑性があり、実際の感情もその通りなのだが、これをあくまでも、
「感情の矛盾を自分で認めたくない」
という思いがあるからではないだろうか?
反抗期が、思春期の中にある、一種の、
「感情の起伏」
にすぎないのだとすれば、ほとんどの子供が反抗期を迎えるというのは、あまりにも都合がよすぎるのではないかと思うのだった。
ただ、それを、