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一足す一は?

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 この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ちなみに世界情勢は、令和4年5月時点のものです。

                 何を大切にするのか?

 桜沢雄二は、大学を卒業して、今年で六年目、仕事でも、第一線で働いていて、自分なりに充溢した毎日を過ごしていた。
 大学時代には、法学部だったのだが、その理由は、
「就職活動の時に、潰しが利くから」
 というのが、その志望理由だった。
 正直、どの学部にも、これといった、やりたいという目的があったわけではなく、とりあえず、大学に進学するのに、受験して合格した学校の学部が、法学部だったというだけのことだったのだ。
 それだけ、桜沢は、大学合格に関しては、そこまで選択肢があるほどの学力があったわけでもない。担任と面談で話を進めていくうえで、合格できそうな学校を探していると、やはり、それほど選択肢があるものではなかったのだった。
 予備校でも、ランクは微妙だった。何とか大学受験コースの中でも、ランクとしては低い方だったが、もっというと、その他大勢の組よりも、ランク的にはしただった。
 要するに、
「底辺決定戦」
 と言ってもいいくらいのランクであり、予備校側も、
「とりあえず、どこかに放り込めばいいのだ」
 と思っているようで、どこかに潜りこめば、それで御の字だということになるに違いない。
 それだけ、乱暴に扱われるほど、彼らにとっては、我々のような生徒は、ガラクタに近かったのかも知れない。
「その他大勢」
 よりもさらに底の方にいるわけで、まあ、そんなことは、本人たちが一番よく分かっている。
 そもそも、今まで生きてきた人生自体が、ずっと底辺だったような気がする。自分では、その原因について分かっているわけではなかった。どちらかというと、
「世の中知らぬが仏ということが多いからな」
 と自分に言い聞かせて、知ろうとしなかったのだった。
 それは言い訳というよりも、自分の人生に選択肢が最初からなかったからだということで、半分は諦めの境地だと言ってもいいだろう。
 生きてきた人生を振り返った時、その時々で、気持ちが違っているように思えるのだった。
 時には、
「皆と同じような平凡な、そしてつまらない人生を歩んできたんだな。もっと、弾けた人生をどうして歩めなかったのか?」
 という思いであったり。別の時には、
「自分は根本的に、人と同じでは嫌だと思っているところがあって、まわりに合わせて居れば楽なはずなのに、自分の気持ちに逆らえずに、天邪鬼な行動をとってしまうことで、損をしてしまうことが多いのではないだろうか?」
 と考えたりもしていた。
 しかし、この考え方は、あまりにも、両極端であり、逆にこの二つの印象が深かったせいで、他にも思いつくことがあっても、他のことはすぐに忘れてしまうような、そんな感覚になるのだった。
 そんなことを考えていると、大学受験の時の、
「底辺の争いのクラスであっても、ある意味、平凡ではないという意味で、本当なら、印象深かったのではないだろうか?
 ということは、そんな印象深いことでも、感覚がマヒしていたわけだから、底辺というものに、自分なりの、何かがあったのではないかと思うと、逆に、
「何か、深く考えたくない思いがあって、その思いが、感覚をマヒさせたのかも知れない」
 と感じるようになったのだった。
 桜沢は、子供の頃は、まわりに比べて比較的裕福だった。父親が数軒の会社を経営していて、近世的な余裕のあったからか、贅沢をするわけではなかったが、一通りのものは与えられていた。
 桜沢少年は、それを、
「当たり前のことだ」
 と思っていた。
 しかも、それは、自分だけではなく、他の子供も同じことであり、金銭的に困っているというのは、マンガやアニメなどの、
「キャラクター設定」
 だと思っていて、ストーリー上、絶対に必要な、人間の一種だというくらいにしか思っていなかったのだ。
 確かに、マンガなどでは、主人公を引き立てるという意味で、主人公と少しかけ離れた、あるいは、時代にそぐわない人間を描くというのも無理もないことで、それが時代錯誤という形にしておけば、コンプライアンス上、問題ない場合も少なくはないと思えたのだった。
 だから、桜沢少年は、皆と同じであることに、最初は違和感などなく、
「当然のことを当然として生きているだけなんだ」
 と考えるようになったのだ。
 小学生の頃までは、意識がなかったが、中学生になった頃から、
「俺って、人と同じでは嫌なタイプなのかも知れないな」
 と思うようになった。
 タイプだというよりも、人と同じということが、胸糞悪いという感覚になっていた。
「人と同じことをしていても、目立てない」
 という表面上の問題と、
「天邪鬼な方が目立つのに、どうして皆、反対意見に信憑性を持たせようとしないんだろう?」
 という考えを持たないのは、おかしいと思えるのだった。
 確かに、目立つということは、自分を表に出す意味で大切なことなのだ、それこそ、
「人と同じことをしていては、真似をした方に信憑性はない」
 というもので、人のマネをするのが、嫌になってきた。
 この感覚が、少し変化して、
「人と同じでは嫌だ」
 という感覚になってきたのだった。
 ただ、桜沢少年は、
「何が何でも目立ちたい」
 というわけではなかった。
 小学生の頃までは、目立つということが、自分にとっての、存在意義を示すということで、目立つということが、自分一人ではできないことなのだと考えると、
「絶対に、追いつけないと思う連中ばかりにまわりを巻き込んでしまうようになるのではないだろうか?」
 と考えるようになった。
「目立ちたいという意識は、無意識に人と同じでは嫌だと考えることと同じではないか?」
 と感じたのだが、マヒした感覚で、人と同じでは嫌だと考える自分に対して抱く矛盾を表しているのではないだろうか?
 そんなことを考え始めた自分が、
「二重人格なのではないか?」
 と思い始めたことであった。
「お金に対しての執着心」
 というものが、その時々で違っているのではないかと思うのだった。
 その一つが、
「自分のお金で買ったもの」
 と、人から与えられたもので、執着心がまったく違っていることであった。
 自分のお金というものは、元は自分の身体や精神を駆使して奉仕した給料や授与金によって買ったものでれば、まるで我が子のようにいとおしいと思うに違いない。
作品名:一足す一は? 作家名:森本晃次