小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

一足す一は?

INDEX|19ページ/23ページ|

次のページ前のページ
 

 その時の厩戸皇子の政策は、まず、仏教を積極的に受け入れ、そして、朝鮮半島にあった、百済、新羅、高句麗と、対等外交と行ってきた。
 どこの国に贔屓することはないという意味である。
 さらに、有名な、
「憲法17条」
 であったり、
「冠位十二階」
 などというものを作って、朝廷内においての中央集権を考えていたのだった。
 だが、実際にはそれがうまくいかず、蘇我氏が最大勢力として君臨していく中で、入鹿の権勢へのやっかみと、入鹿が、厩戸皇子の息子である。山背大兄王を滅ぼしたことによって、中大兄皇子の身が危険になったことで、中臣鎌足が中大兄皇子に近づいて、クーデターを画策するようになったのが実情だった。
 中臣鎌足の本音は、嫉妬が一番であっただろうが、それ以外に、蘇我氏が、日本古来の国教を無視して、外来の仏教を推し進めることへの反感もあったという。
 さらに、朝鮮半島に対しての外交にも不満があったようなのだが、少なくとも、
「嫉妬から」
 という意見も、今では有力になっているようだった。
 実際に、乙巳の変が成功し、そこから、
「大化の改新」
 が始まることにあるのだが、ここも、少しきな臭いものがあった。
 蘇我氏が、敵対勢力を、策謀を持って滅ぼしていき、勢力を拡大させていったのと同じように、大化の改新の一派も、同じようなことを繰り返していった。
 有間皇子などのように、陰謀のために、殺された人も結構いたことだろう。
「クーデターというものは、そういうものだ」
 と言われればそうなのだが、答えを出してくれるはずの歴史がこのような体たらくでは、本当に乙巳の変や、大化の改新が成功だったと言えるのだろうか。
 何と言っても、それからの朝廷は、ドタバタ劇が続いた。
「百済が新羅に滅ぼされそうになっているので、援軍を」
 ということで、百済からの使者に対して、日本は、兵を送り、新羅に対したが、高句麗との連合軍の前に、滅ぼされてしまった。
 いくら、百済から援軍要請があったからといって、朝鮮半島という勢力が及んでいない国に兵を送るのだから、どれだけ傲慢だったのかということである。
 しかも、送った兵は大敗を喫し、今度は、新羅、高句麗からいつ攻められるか分からないという状態になってきたのだった。
 そこで、都を当時あった、難波から、筑紫に遷都し、そこで、半島からの進軍に備えるという形を取ったのだが、実際には、兵が来ることもなく、また難波に都を戻した。
 だが、それからは、30年くらいの間に、遷都の荒しだった。
 難波から、飛鳥に写したり、いかるがに都を置いたり、信楽に置いたりもした。結局は、大津に都を構えることで、そこで、やっと中大兄皇子が、皇太子の身分から、天皇に即位することになった。
「天智天皇」
 の誕生である。
 だが、なかなか即位しなかったのは計算で、皇太子の身分の方が、身動きがとりやすいというものだった。
 だが、考えてみれば、大化の改新によって、一番推し進めたいと思っていた、
「律令制度の確立」
 と、
「中央集権国家への道のり」
 というものは、ほとんど成功しなかったといってもいい。
 しかも天智天皇は、自分の息子可愛さに、死んでもそのしこりを残してしまったために、
 これも、古代最大の内乱と言われた、
「壬申の乱」
 を引き起こすことになった。
「歴史は繰り返す」
 と言われるが、
 先代が、皇位継承者を自分のわがままで決めたりすると、そのしこりは後の時代に必ず残るということは、歴史が証明している。
 それは、
「保元平治の乱」
 であったり、
 日野富子が自分の息子可愛さに、起こしたクーデターが、京都の街を焼け野原にするという、
「応仁の乱」
 を引き起こしたり、
 秀吉が、自分の息子が生まれたことで、先に決めていた後継者を何とかしないといけないと画策した、
「秀次事件」
 しかりであった。
 秀吉はこの頃から、完全におかしくなっていった。朝鮮出兵であったり、秀頼可愛さから、誹謗中傷をした人間を特定できなかった部下を皆殺しにしてみたり、千利休に切腹を命じたりと、常軌を逸した行動に出ていたのである。
 つまり、歴史の舞台、しかも、それが皇位継承問題と、人情が絡んでくると、ロクなことにならないというのが、
「歴史の出した答えだ」
 といえるのではないだろうか?
 実際に、
「歴史は繰り返す」
 という意味で、
「もし、ここでクーデターが起きなければ、時代は百年先に進んでいた」
 と言われることがいくつかあるらしい。
 つまり、そのクーデターのおかげで、歴史は100年さかのぼったというわけである。
 その一つが、古代医おける
「乙巳の変」
 であろ、あとの二つはそれぞれ、中世と近世に別れていて、それぞれに、
「時代の転換点だ」
 といえるだろう
 乙巳の変でも確かにここが時代の分岐点であることに変わりはない。後の二つというのは、
「平家の滅亡」
 と、
「坂本龍馬暗殺」
 だったと言われている。
 この三つの共通項であるが、これは、
「対外的に、100年時代を逆行してしまった」
 ということである。
 乙巳の変では、百済に味方して、朝鮮半島に睨まれてしまったこと。
 そして、平家の滅亡というのは、平清盛という人物は、海洋民族といってもよく、瀬戸内海の治安を守ることで台頭してきた民族である。
 当然、当時の中国王朝である、
「宋」
 との間で貿易を進めていて、平家が亡んでしっまったことで、源氏が武家の社会を今言われている形で形成されることになった。
 つまり、いわゆる、
「封建制度」
 である。
 封建制度というのは、武家と、その暮らしを支える土地というものを守るために、行う政治であり、海外に対しては基本的に、意識するものではなかった。
 そういう意味で、時代が百年さかのぼったというのも、無理もない話だったのである。
 さて、今度は、幕末の坂本龍馬暗殺に関しては、歴史好きの人であれば、大体は分かっていることだろう。最初は、攘夷派だった坂本龍馬だったが、海外の実力を目の当たりにすることで、
「このままでは、攘夷などできるはずはない」
 ということになり、
「天皇を中心とした中央集権国家を築き、海外と平等に渡り合うようにするためには、幕府を倒さなければならない」
 という、
「尊王攘夷」
 の考え方にシフトしていったのだ。
 しかも彼は、西洋を研究し、日本で最初の株式会社である、
「亀山社中」
 を作ったり、最初の新婚旅行に出かけたり、さらには、明治政府の五か条のご誓文と呼ばれるものの基礎になる、
「船中八策」
 なるものを考案したりした。
 そして、最悪に仲が悪かった薩摩と長州を、同じ体制を志す同志として、一つにまとめた功労はすごいものだった。
 しかし、そんな竜馬を胡散臭く思っていた連中が山ほどいた京都にて、彼は志半ばで暗殺されてしまった。これは暗殺という意味では同じである、
「本能寺の変」
 と似たところがあるのではないだろうか?
 それを思うと、
「確かに歴史というのが、答えを出してくれるという考え方は、間違ってはいないのかも知れない」
 と感じるのだった。
 そう、
「歴史は繰り返す」
作品名:一足す一は? 作家名:森本晃次