小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

一足す一は?

INDEX|15ページ/23ページ|

次のページ前のページ
 

 のような話になるのではないだろうか?
 そんなことを考えていると、
「夢の世界も、現実の世界もさほど変わりがない」
 と思えてきた。
 それなら、宗教のように、
「信じれば、あの世で、天国に行ける」
 と言われるが、
「あの世にそんないいところがあるというのだろうか?」
 ということを考えたりする。
 そういえば、あれは、世紀末より、少し前だっただろうか? あれは韓国だったと思うが、一つの考え方に、
「世界の終わり」
 という説がある。
 宗教がらみのことなのだろうが、
「神が指定したその日に、世界が滅亡する」
 と言われるものであった。
 世界が終わるというその日に、これを信じている人は皆、どこかの競技場のようなところに集まって、仲間同士で祈りを捧げながら、来るべき日を迎えるということになっていたのだという。
 普通であれば、なかなか信じられるものではないのだろうが、それだけ、宗教団体としてお結束が固いということなのだろうか?
 それよりも、聖書の中に書かれている、
「ノアの箱舟」
 のように、ノアが、陸地に大きな箱舟を作っているのを見て、まわりの人がバカにしたりしていたのだが、実際に洪水が起こってみると、皆死滅してしまう中で、ノアとあらゆる動物の選ばれたつがいたちと一緒に、洪水をやり過ごしていた。
 そんな話を見ると、世界の終わりという話も、まんざら嘘でもなさそうな気がしてくる。ノアの話と、
「世界最終説」
 との話とでは、その違いは、ノアの話が、一家族だけ生き残って、新たな人類が増えていくという考えと、世界最終説が、
「世界は完全に滅んでしまって、永遠の幸福を得られるのが、あの世でのことである」
 という考え方だ。
 どうせ皆死んでしまうのだから、
「天国に行って、幸せになるか、地獄に堕ちて永遠の苦痛を味わうか?」
 ということになるというのだった。
 ただ、そのためには、
「この世でお金を持っていても仕方がないので、死ぬ前に、教団にすべて寄付をしなさい。寄付をすれば、神様が天国へ導いてくださる」
 と言って、信者からお金を無心したことだった。
 明らかに、
「詐欺だ」
 ということは分かりそうなものだ。
 それなのに、誰も疑問を持つこともなく、実際に、問題の日を迎えることになる。
 当然のことながら、世界が滅びるなどというのは、完全に迷信だったのだ。
 だとすれば、
「この世の最期を一緒に迎えて、天国に上っていこう」
 ということで、この場に集まった人たちはどうなるというのだ?
「ああ、世界が滅びることはなかった。よかったよかった」
 で済むことだろうか?
 問題は、教団にお布施という形で寄付してしまったのだから、完全に、一文なしではないか?
 当然そこで、信者たちは目を覚ます。
「おいおい、これじゃあ、詐欺じゃないか?」
 といって騒ぎ立て、告訴をすることになった。
 実際にその判決がどうなったのか、正直知らないが、いや、知りたくないというのが事実かも知れない。
 そんな当たり前の詐欺に引っかかる方も引っかかる方である。
 だが、教団の側としても、
「世界が滅びることを、真剣に信じていた」
 というだろう。
 そして、彼らの役目としては、自分たちがあの世で天国にいくためには、この世で使用した寺院や、施設を、きれいにしてから、この世の終わりを迎えなければいけないということだったようだ。
 だから、信者から金を募って、お布施として、施設を綺麗にしてから、この世の最期を向ける予定だった。
 しかし、世界は滅びることはなく、指定された日も、23:59の次は、何も変わらない、次の日の、
「午前0時」
 だったのだ。
 一般信者は明らかに、
「騙された」
 と思うのだろうが、教団側とすれば、自分たちも中途半端に生き残ってしまったことが命取りになってしまっていた。
 そうやって考えると、この世が終わっても、地獄、生き残っても地獄だったと言えるのではないだろうか?
 果たして、彼らの目指す極楽というのは、どういうものなのだろう?
 宗教によっては、
「天国も地獄も、結局はこの世にしかない。別の世が存在するとしても、そこには、同じ世界しか存在しない」
 という、他の宗教をまるで敵にでもしたかのような発想であった。
 だが、この説が一番正しいのではないかと思えてきた。
 特に、この時のような、
「世界最終説」
 などという逸話が残る話においては、本当に、教えにあるような天国と地獄は存在するのだろうか?
「あの世に行ってしまうと、この世の記憶はなくなっていて、あの世に行った自分は、今の自分ではない」
 という発想になるのではないか?
 そう考えれば、宗教というのは、実に矛盾している。あの世に行って本当に自分としてあの世に行けるのかもハッキリしていないではないか。そもそも、輪廻転生といって、生まれ変わることができるのは、決まった人たちであり、しかも生まれ変わる時に、人間に生まれ変われる人の中から、もう一度自分に生まれ変わるなど考えられない。
 まず、地獄に行った人間は、生まれ変わるとすれば、人間以外のものになってしまうという考え方だからである。
 人間に生まれ変わったとしても、前世で記憶はすっかり消えているのも分かっているはずだ。それでも、
「極楽に行ける」
 といえるのだろうか?

                 好き嫌い

 自分のことをなるべく他の人に話して、分かってもらおうと考えた梅林は、どうも、何かを勘違いしているようだった。
 人に、
「自分の気持ちを聞いてもらいたい」
 と思っているにも関わらず、態度がどうもおかしいのだ。
 だから、最初は、皆、
「別に聞くくらいならいいか」
 と思うのだったが、実際に話を聞いてみると、
「おや? どうして、俺はこいつの話を聞いてやっているんだ?」
 と途中から思うようになるのだ。
 最初は分からなかったが、途中から、どこか押しつけのような雰囲気が伝わってきて、「まるで、高飛車のようではないか?」
 と感じるのだった。
「こっちは聞いてやっているのに」
 と思っていて、確かに最初は、聴いてほしいという態度だったものが、話を聞いているうちに、相手の話の聞き方に、どこか不満があるようだった。
「聞いてほしいと思っているのに、相手の聞き方の態度をどうこういうというのは、ちょっとおかしいんじゃないか?」
 と言われても仕方がないのだが、どうやら本人は、まるで、
「ありがたい教えでも、説いている」
 かのようなつもりに見えるらしいのだった。
 確かに、人がたくさん集まってくれば、そういう輩は一人くらいはいるだろう。
 しかし、今まで自分のまわりに一人としていないタイプの人間だっただけに、普段であれば、
「新鮮に感じる」
 と思うのだろうが、少しでも態度が悪いと、
「何様のつもりだというんだ」
 という思いに方向転換してしまうことだろう。
 最初は彼も、そんなに何かの教えを説くというような雰囲気でもなかった。あくまでも、自分の性格的なことを話すのに、これまでの経験であったり、普段感じているようなことを話すだけであった。
作品名:一足す一は? 作家名:森本晃次