一足す一は?
本来なら、先に気づかなければいけないはずの母親が、気づくどころか、余計に感情をあらわにするということは、子供に対して、どれほどの歪んだ感情を持っているかということになるのだろう?
母親の、元からの性格から来ているものなのか、それとも、まわりの人、特に親しい人の助言などを過剰解釈して、さらに、子供を持って、それまでの空想が現実になったことで、さらに過大な感覚を持ってしまったことで、発想が歪んでしまったのか。
または、これまで育ってきた環境を、自分なりに解釈して得た答えがこれだったのか、ハッキリとは分からない。
ただ、大学生になった頃、子供の頃を思い出して感じたのは、最期の考えではないかと思ったのだ。
と、いうのは、あれだけ頑なに考えを変えようとしなかったからである。
明らかな間違いだと分かれば、やり方を変えるくらいのことは思いつきそうなのに、頑なに自分のやり方を貫いたというのは、いい意味でも悪い意味でも、
「徹底していた」
ということであろう。
その徹底というのは、
「そこに、期間という絶対的な感覚が入っているからではないだろうか?」
と感じたのだ。
「時間をかけて、身に着いたものは、短い時間でどんなに濃厚に考えたとしても、勝ることはできない」
といえるのではないだろうか?
それを思うと、母親のやり方がよかったとは、絶対に思わないが、
「過去に育ってきた環境によって培われたものは、そう簡単に、切り離して考えることはできない」
ということであり、同情の余地くらいはあるのではないだろうか?
だが、そんな母親の態度が、いつの間にか、桜沢の中で、トラウマになってきていることに気づいた。
「俺が親になったら、子供に対して、自分が受けたこの仕打ちは、絶対にすることはないようにしないといけない」
と、思うのだった。
だが、母親も、たぶん自分の親から同じ仕打ちを受けたからこそ、自分の子供にも同じことをしているのだろう。
ひょっとすると、自分と同じように、
「こんなことは、自分だけではなく、他の子供にも当たり前にあることなんだろうな」
と、母親も思っていたことだろう。
それでも、理不尽さと、情けなさの極致にあり、やはり、子供には、同じ思いをさせないという気持ちをさらに強く持ったはずなのだ。
母親は、子供を叱りつける時は、ヒステリックになって、その態度のどこにも、
「子供のため」
という意識が入っていないように思えてくるのだ。
もっとも、ヒステリックになっているのは、相手を思う感情が消滅していて、自分のための感情のみで、自分を何とか正当化させようとするから、生まれる感情なのではないかと思うようになってきた。
大学生というと、子供というには、思春期も通り越していて、成人もしていることになり、
「まだ、子供」
というには、あまりにもであった。
ただ、それは親などのような肉親から見てのことだろう。これが、肉親以外の大人から見れば、
「まだ、就職もしていない、社会人になり切れていない人間を、大人だと認めるわけにはいかない」
と考えている。
しかし、逆に、親から見た時、
「子供はいくつになっても、子供のままだ」
と言われるではないか。
ここに、矛盾があるのだ。
つまりは、
「大学生になったのだから、もう大人だ」
という考えの中に、
「何か間違いをしても、まだ子供なんだ」
という意識があることから、何かあった時の言い訳にしたいという、一瞬の二段構えなのかも知れない。
何もなければ、
「大人だから」
ということで、いいのだが、何かあった時、
「まだ子供なのに、大人がやらせたのだとすれば、それは大人の責任」
ということで、子供のためというよりも、自分が納得したいために、言い訳を与えることになる。
というものであった。
それが、言い訳ということであれば、
「すべてが自分だけのための言い訳だ」
というのは、少し偏った考えにはならないだろうか。
子供と大人の狭間で、悩むことになるのは、これは誰にでもあることだ。
それが、大学時代になるのか、就職してからになるのか、それとも、成人式のような儀式を感じることで、自覚が強まることからなのか、大人と子供の間には、大きな結界のようなものがある、
母親も同じところを通ってきたのだろう。桜沢もその場所を通り抜けようとした時、本当は、トンネルが見えた時、
「あれが、大人になるためのトンネルだ」
と意識したはずだ。
だが、トンネルからはいつの間にか抜けていて、気が付けば明るくなっている。
「入る瞬間は意識できたのに、抜ける瞬間は分からなかった」
というのは、入る瞬間は、絶対に意識しなければいけないもので、出口はどうでもないからなのか、それとも、入る瞬間は意識しなくても、抜ける時は意識が必要なのかという、理屈として、どちらかだということになるのではないかという考え方とは別に、
「抜ける時に感じないことで、大人になったという意識を持つことができない」
ということから、子供の頃に大人になったら、こんな理不尽なことはしないようにしようと思っていた感情を忘れてしまっているのかも知れない。
それを忘れさせるのが、
抜ける時、無意識でいるということで、これが自己暗示なのか、別のどこかからの力によるものなのか、考えさせられてしまう。
子供の頃に感じた思いを大人になってしまうと、本当に覚えていないようなのだ。
「そのくせ、筆箱を忘れてきた子供を叱る資格が、親にあると言えるのだろうか?」
と、考えてしまうのだ。
そんな大人になってから思い出してしまうと、
「人に言えば気が楽になるはずだと分かっているのに、どうしても、他人に相談できないという気持ちになるのは、それだけ、自分に自信がないところを、自分で知っている」
と思っているからなのかも知れない。
自分に自信のないことが、人との距離を遠ざける一番の原因なのだろうと、感じるのだった。
風が重い
そんな、感じていることを表に出すのが苦手な桜沢であったが、逆に思っていることを口にしないと我慢できないのが、梅林であった。
彼は、友達を作ると、まず、相手のことを知ろうとするよりも、まず、自分のことを知ってもらおうとして、相手がどういう人なのかは別にして、自分のことを話し始める。
相手によっては、煩わしいと思う人も多いだろう。
本当は別の話題で話をしたいものを、梅林は強引に自分の方に話を持ってくる。
相手が、一人であっても、複数であっても一緒だった。
彼の考えとしては、
「相手が一人よりも、複数の方が話に持ってきやすい」
と思っているようだ。
一人の方が相手しやすいと思われがちだが、複数のような団体になると、一人が話題の中心になると、まわりは、それについて行けばいいだけなので、楽なのだ。
自分が輪の中心にいないと我慢できない人間だけが相手になればいいのだろうが、そんなに自分の話題に持ってきたいと思っている人は多くはない。