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一足す一は?

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 これは、寡兵であるという、不利な状況を打開するという意味で、自軍を、いくつかに分けて、主力を正面に配置させ、正面で少し戦って、そこから慌てて後退しているかのように見せかける。ただでさえ兵の数が少ないのに、さらに兵を分けるのだから、ある意味自殺行為だといってもいいだろう。
 さすがに、相手と緒戦力さを見せつけられて、臆する形で後退するのも無理のないことであろう。だから、相手は疑わずに、逃げる相手を追いかける。
 そしてその隙に、別動隊をさらに二組に分けて。逃げる横から、潜ませておくのだ。
 敵が罠に罹っているのを幸いに、別動隊が一気に横っ腹に向かって襲い掛かるというわけだ。
 相手は、混乱するに違いない。楽勝だと思っていたのが、形勢逆転させられ、正面の敵にも抵抗する力がなくなってしまっているのだろう。
 そのまま、まわりから挟み撃ちにされて。相手は、殲滅させられるに違いない。
 ただ、この作戦も、
「もろ刃の剣」
 だといってもいいだろう。
 相手の総大将の頭がよくて、
「何かおかしい。罠ではないか?」
 と思われれば、せっかくの作戦もうまくいかない。
 また、奇襲であればあるほど、その評判は全国に知れ渡ることだろう。
 しかし、そうなると、もう、
「奇襲は奇襲ではなくなる」
 ということである。
 そういう意味では、半永久にできるものではなく、ある意味、一回こっきりの作戦になりかねないということだ。
 そうなると、戦に勝つために、
「次はもうこの作戦はバレてしまって、効果はない」
 ということであれば、どんどん新しい作戦を考えなければいけない。
 核兵器のような抑止力があればいいのだろうが、核兵器というのも、こちらも、同じ意味での、
「もろ刃の剣」
 だといってもいいだろう。
 戦争は、始めるよりも終わらせる方が数倍難しい」
 と言われている。
 それが、結婚と離婚でも言えることであり、別れてしまえば、余計に自分が何をしているのか分からなくなってしまうことだろう。
 梅林は、自分の性格をよく人に話す。
「相手にわかってもらいたい」
 ということになるのだろうが、その感情は分からなくもない。
 逆に桜沢は人に話そうとはしない。なぜしないのか、自分でもハッキリとは分からないのだが、話をしてしまうことで、何かよからぬことが起こってしまうそうな気がするからなのだろう。
 桜沢の親は、ちょっと、いや、かなりの神経質だった。桜沢が小学生の頃、学校で、筆箱を忘れてきたからといって、
「今から取ってきなさい」
 と、学校に取りに行かせていたのだ。
 学校まで、徒歩で、片道20分、しかも、一度帰宅してからなので、往復にさらに帰ってきた道のりを食わせると、歩くのは、普通に考えて、1時間ということになる。
 正直、学校から帰ってきてから、疲れているのに、再度の1往復というのは、かなりの重労働となる。
 しかも、やらなくてもいいことをやらされるのだから、これは、顔が真っ赤になるほどの屈辱だといってもいいだろう。
 最初の頃は、
「なんでこんなことを?」
 と思っていたが、そのうちに、
「これが当たり前のことなんだ」
 と思うようになった。
 つまり、
「うちだけのことではなく、皆、学校で忘れ物をすれば、親の命令で撮りに行かされているんだ」
 と、慣れてくるにしたがって、当たり前のことだと思うようになっていた。
 だが、学校の往復というのは、何回やっても慣れるものではない。本当に屈辱感は慣れによって、薄まることはなかった。
「だったら、忘れないように気を付ければいいじゃないか?」
 と言われればそれまでのことなのだが、そうもいかないようだった。
 意識すればするほど、忘れ癖はひどくなるような気がする。なぜなら、普段から、必要以上にしつこいほどに、
「忘れてはいけない」
 ということを意識しているのだろう。
 しかし、そう思えば思うほど、精神的な苦痛な時間がなくなってくる。
「少しでも気を抜けば、その瞬間、忘れてしまうことになるんだ」
 と思うからだった。
 しかも、実際に忘れる瞬間というのは、確かに、気を抜いた瞬間なのだろう、何しろ、忘れた瞬間、自分がいつだったのか、ハッキリとしないからだ。
 気を張っている時であれば、後から思い出したとしても、その意識は忘れずにあるからではないだろうか。
 そう思うと、母親から言われて、何度も何度も、繰り返して、学校に物を取りにいくというのは、ある意味、無駄なことに思えてきた。
 母親の目的が何なのか、次第に分からなくなってきたからだった。
 学校に取りにまでいかせるということは、本来なら、取りに行くという苦痛を味合わせて、
「忘れ物をすれば、取りにいくことになるんだ」
 という戒めから、忘れないようにさせるという、教育の一環としての、一種の、
「体罰」
 に近いものではないだろうか。
 しかし、その効果が出ることもなく、何度も何度も、学校に取りに行かせるというのは、親の方としても、まったくの策がないということである。
 ということになると、
「親の目的は、別にあるのではないだろうか?」
 といえるのではないだろうか?
 学校に取りに行かせるというのは、ある意味、一番安直な考え方だ。子供が屈辱に感じ、それで次回から気を付けるようになるのであれば、
「一発でうまくいくくらいの、荒療治ではないか?」
 と思える。
 それが、何度も何度もうまくいかないのであれば、普通だったら、
「やり方が悪いんだろうか?」
 とは思わないのだろうか?
 普通何度も失敗していれば、考えることであって、それをしないということは、
「最初から考えてのことではなかったのではないか?」
 と思えてきた。
 つまり、これは、戒めであったりするわけではなく、
「息子が忘れ物をしたということは、悪いことをしたというわけだから、体罰を与えなければいけない」
 というだけの理由だったのではないかということだった。
 そこに、
「子供のために」
 などという意識は、微塵もないのではないか?
 もし、何かあるとすれば、それは、世間体というものなのではないかと思うと、
「息子の不始末に対して、親としてやるべきことはちゃんとしている」
 ということを、対面的に見せているだけだと考えれば、どこか辻褄が合う気がする。
 忘れ物をしたのが分かった時、子供を叱っているというよりも、かなりヒステリックになっていて、叱られている子供の方が、
「お母さんがここまで苛立っているのは、僕のせいなんだ」
 と、自分で自分を戒めてしまうくらいに、後ろめたさを感じることだろう。
 そう思って、母親に対して、
「申し訳ない」
 と感じることが、子供としての礼儀のように思っていたが、親が子供に対して、礼儀のようなものがまったくなかった。
「親は子供に対して、礼儀などということを感じてはいけないんだ」
 と思っているのではないだろうか。
 ここまで、子供が親に対して感じる思いと、親が子供に対して感じる思いに、差があるというのは、どういうことなのか、子供に理解できるものではなかった。
作品名:一足す一は? 作家名:森本晃次