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もう一人の自分の正体

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 苛める方も、観客がいなければ、苛めたとしても、面白くはないだろう。まるで、豆腐を叩いているようで、相手のリアクションも、反応もなければ、まわりのリアクションを期待するしかないではないか。
 苛めている方にも、それくらいのことは分かっているのかも知れない。相手が、リアクションを示さなければ、こっちが飽きて、苛めてこなくなるだろうというくらいのことは、容易に想像がつくことだと思っている。 ただ、それは昔は分からなかっただろう。昭和の頃は、
「ムカつくから苛めている」
 というだけの意識だったのだろう。
 だから、苛める理由がなくなると、苛めを辞めてしまうが、今の苛める理由というのは、苛められる側の問題ではなく、苛める側の問題だから厄介なのだ。
 ただ、苛めの傍観者というものの罪は今も昔も変わっていないだろう。昔であれば、
「傍観者が一番悪い」
 と言われたこともあった。
 実際にそうであろう。自分で手を下すこともなく、苛められているやつを見て、
「ざまあみろ」
 とばかりに思い、自分の勝手なストレスを発散させようとして、それを自分の中だけで解決させようというのは、まるで、火事場泥棒のようではないか。
 しかも、傍観者というのは、当事者の数名以外のほとんどの人間だ。その人の本心がどこにあるのかは別にして、助けようというアクションを起こさないのだから、これ以上の罪はないだろう。
「自分たちが苛めているわけではない。苛めている連中が悪いのであって、苛められている方に対して、同情する気もしない」
 ということなのだろう。
 そういう連中のすべてがそうだとは言わないが、しかし、ほぼほとんどの人間が、ただ、傍観しているわけではない。
 自分のストレスの発散に、苛めを利用しているのだ。
 昭和の頃にあったマンガで、家族全員から、半殺しにされているような、ギャグマンガがあったが、もはや、今見れば、
「ギャグではとても済まされない」
 というものであった。
 鬼の持っている金棒であったり、キリのようなもので刺してあったり、リアルであれば、とても命のないものであろう。子供が見るマンガとは思えない構図だった。
 当然、今であれば、少年誌に載せるなど、アウトであろう。だが、よく考えれば、劇画調のマンガであれば、もっとリアルな書き方をしている作品もある。
 考えられることとしては、劇画の方は、あくまでもフィクションで、しかも未来世界などという設定であれば、少々は許されるのではないか?
 家族に暴力というのは、どんな程度であっても、コンプライアンス的にアウトだろう。何と言っても、想像を絶するものではないからである。
 それは、苛めに遭うような人間からすれば、想像できる苛めは、妄想へと変わってしまうことになるだろう。
 それがトラウマになってしまい、恐怖として意識に残るのか、それとも、感覚をマヒさせる要因として残るのか。
 前者であれば、トラウマから、親への恐怖、家族への恐怖を募らせることになり、後者であれば、ちょっと、親から怒られたりすると、マヒした感覚から、
「親が死んでも、別に悲しくも何ともない」
 という気持ちになり、自ら親を殺すということも、普通にあるのではないか。
 しかも、感覚がマヒしているのだから、なおさらである。
 今の法律では、
「尊属殺人罪」
 つまりは、近親者を殺害すると、その罪は加増されるという考えであるが、その条項は、削除されている。理由とすれば、憲法で保障されている、
「法の下の平等」
 に違反する、つまりは、違憲となるということである。
 それが撤廃されたこともあって、昔の、
「家族制度」
 というものが、今の時代にそぐわないということも、その理由の一つであろう。
 感覚のマヒから、次第に苛められることが、苦痛ではなくなり、
「まるで他人事」
 と思うようになって、学校に行くのがバカバカしくなり、人と接するのが嫌になって、引きこもってしまった。
 すでにその頃は苛めは一段落していたはずだったので、
「岡崎のやつ、何で引きこもっちゃったんだ?」
 と皆、不思議がっていた。
 実は先生もそうだった。
 先生の方とすれば、苛めが横行していることは分かっていて、岡崎が苛められているのも分かっていた。
 分かっていて何も言わなかったのは、
「苛めを受けている人は、助けを求めるような目で見てくるものなのですが、岡崎君には、そんな目を感じなかった。だからと言って、放っておいたのはまずかったと思ったのですが、最近では、苛めが収まってきて、岡崎君の表情が和らいできたような気がしたので、もう大丈夫だと思った」
 というのが、先生が、感じていたことのようだ。
 岡崎は確かに、苛めが和らいできて、まわりが、自分を相手にしてくれるようになったのを感じていた。それだけに、今まで一番助けてほしいと思った時、誰も助けてくれなかったことを、疑問に思ったのだ。
「今寄ってきたっていうのは何なんだ? まるで俺が苛めに耐えたことで、皆の仲間入りができたとでもいうのか? そんなのおかしいじゃないか?」
 と感じたのだった。
「先生だって、そうだ。分かっていたくせに、助けようとしない。今になって、平和になったとでも思ってんじゃないぞ」
 といいたかったのだ。
 それまでは、必死にまわりに助けてほしいと思っていて、何が自分に起こっているのか分かっていて、見て見ぬふりをしていたのだ。それって、卑怯ではないか? 結局皆、
「強い奴が正義で、弱ければ悪だ」
 とでも、思ってるんだよ。
 と感じると、急に世の中がバカバカしくなってきた。
「苛められなくなったことを、まわりのおかげだとでも思うと、俺が感じているわけないじゃないか? 俺は自分の力で這い上がったんだ」
 と思っているのに、まわりは、ただ、
「苛めがなくなって、よかったな」
 と、状況だけしか見ていない。
 こんな状態だったら、これから何があっても、まわりの目は変わらない。状況だけを見て、相手を判断しているのであれば、状況に流されるようにしか見えていないということになるので、その人が本当に変わったのか、それとも外的な要因によって、ただ、歯車がいい方に回転しているだけなのか分からないだろう。
 だとすれば、まわりの見ている目は、節穴であり、信用できないということになる。
 下手に信用してしまって、委ねてしまうと、結果的に、簡単に裏切られてしまうということになりかねないのではないだろうか?
 だったら、誰も信用することはできない。そう思うと、まわりが急に冷めて見えてきたのだ。
 まわりが冷めて見えてくると、まわりの世界すら、違って見えてきた。
 何となく身体のダルさが、慢性化しているように思えてきて、まるで、黄砂が降ったかのように、黄色い空気に包まれているように見えたかと思うと、光っているものが、鮮明に感じられるようになった。
 信号機の青、今までは、もっと緑っぽく見えていたのに、その頃から、真っ青に見え始めた。
 赤い色だってそうだ、真っ赤に見えていて、鮮血のようだった。だが、濁った色では決してない。まるで透けて見えるくらいの鮮やかさだった。
作品名:もう一人の自分の正体 作家名:森本晃次