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もう一人の自分の正体

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 それほど、大義名分が士気に与える力はすごいものであり、どうすることもできないものだといえるのではないだろうか?
 それを思うと、大義名分と、士気の関係から、見えてくるもの、そこに、戦というものが、どれほど神経と肉体を使うものだということがよく分かるのだろう。
 そんな大義名分が、彼らになかったことで、次第に苛めを受けることがなくなってきた。
 苛めを受けている時は、
「早くこんなことがなくなってほしい」
 と思っていて、次第に感覚がマヒしてくるほどになってきたのに、いつの間にか、自分が訳が分からなくなってきたことに気づいてくるのだった。
 だが、実際に苛めがなくなると、その時のことを忘れてしまっていた。
「喉元過ぎれば熱さを忘れる」
 ということなのか、苛められなくなると、それまで感じていたことが、すっかり意識から消えていたのだ。
 苛めを受けている時、なるべく被害を小さくしたいという意識から、大げさにしないようにしようと考えたのかも知れない。
 苛めを受けている時は、自分の中で、大げさにしたくないという思いは、岡崎だけではなく、他の人にもあることだろう。
 例えば、苛めを受けている時、学校の先生や、家族にその苛めが見つかった時、本来であれば、
「助けてほしい」
 という思いから、自分がどんな苛めを受けていたのかということを、どんどん公表していくであろうが、岡崎は、そんなことはしなかった。
 むしろ、
「変な詮索はやめてほしい」
 とまで思っていたようで、その一番の理由は。
「まわりが信じられなくなった」
 ということであろう。
 もし、ここで、先生や家族に苛められているということを公表すれば、どうなるだろう?
 ひょっとすると、苛めがなくなるかも知れない。しかし、その可能性は非常に低いのではないだろうか?
 苛めをしている方もバカではない。いかにごまかすかということくらい、事前に調べているだろう。
 どんな方法を駆使するのか分からないが、一度、
「シロだ」
 ということになれば、もう二度と、何を言っても、聞いてくれることはないだろう。
 ミステリーなどで、何かの事件が起こって、証拠品か何かを捜索し、一度でも、
「そこにはなかった」
 ということになれば、同じ事件であれば、場面が違っても、もう二度とそこを捜索するということはない。
「これほど安全な隠し場所はない」
 というもので、そのことを分かっている人間は、心理的な盲点をついたということで、かなりの知能犯ではないかといえるのではないだろうか?
 つまり、先生などの、職業として、生徒を見ている人たちは、形式的なところでしか判断しない。それは、警察と同じで、
「無駄なことはしない」
 と思っているからだろう。
 警察ですら、そうなのだから、学校の先生ごときになると、余計に無駄なことをするわけはない。
 だから、
「一度騙すことに成功すれば、二度と疑われることはない」
 という心理の盲点を掴むことで、
「先生はあてにできない」
 と思うのだ。
 だとすれば、苛める側が頭がよければ、苛める側の、
「一度追及を逃れることができれば、これ以上安全なことはない」
 ということになり、そうなってしまうと、苛められている側は、どうすることもできない。
 一度逃れたものは、二度とこじ開けることはできないのだ。
 それを恐れるからこそ、先生を信用しない。最終的には、保険を掛けているかのように見えるが、これほど、脆弱な保険もないもので、最初から期待をするなど、できっこないのだ。
 そうなると、徐々に信じられる人間も減ってきて、
「後は、逃れることを待つしかない」
 と考えるのだ。
 さらにいじめられっ子というのは、
「どうしても、相手に逆らう」
 ということをしないものだ。
 下手に逆らって、相手の怒りを覚えることになるし、それ以上に気をつけなけれないけないのが、相手が、尋常な人間ではない場合である。
「とにかく、誰でもいいから、ムカつくという理由だけで苛めたい」
 と思って言うとすれば、下手に逆らうと、相手を喜ばせることになる。
 相手は、ひょっとすると、寂しがっているのかも知れない。だから、誰かにかまってほしいという意味での、
「かまってちゃん」
 なのだろうが、それが、粘着系の苛めっ子だったりなんかすると、こちらはたまったものではない。
 何しろ本人は、苛めているつもりはなく、むしろ、
「可愛がっている」
 と思っているのだとすれば、これは厄介だ。
 まったく罪の意識もなく、逆に、
「俺がかまってやってるんだ」
 などと思われたりすると、これ以上の迷惑というものもない。
 だから、相手に遠慮がない。罪の意識もない。要するに、終わることのない、
「負のスパイラル」
 を自分で作ってしまうことになるのだ。
 いじめっ子の、嬉々とした、相手を苛める時のあの表情を見たことのある人間は、たぶん、苛められている時、相手に逆らおうという気持ちに絶対にならない、何とも言えない表情だ。
 昭和の頃であれば、
「苛められて、黙って帰ってくるなんて、意気地なしだ」
 と言われていたのだろうが、平成の中頃くらいからか、
「苛めに対して逆らうと、ロクなことはない」
 という風潮になり、ささやかな抵抗という意味で、不登校になったり、引きこもりになったりしたものだ。
 そういえば、
「不登校」
 という言葉であるが、今では、
「不登校が当たり前」
 という言われ方になったが、昔は、確か、
「登校拒否」
 と言われていたと聞いている。
 登校拒否というのは、理由はどうあれ、学校に行かないということで、その場合は、非というものは、学校に行かない側にあるような言われ方だった。
 しかし、不登校というおは、その時代の多様性によって、学校に行かない理由も多様化してきて、必ずしも、行かない方にすべての責任があるというわけではなくなってきたのだった。
 そこには、苛めというのも含まれていて、苛めている側にも、苛められている側にも何らかの問題があるということであろう。
 この問題というのは、
「どっちが悪い」
 という、善悪の問題ではなく、結果後して出てきた、不登校というものが、どこに原因があって、どうすれば解決できるのかということを、考えるのが先決なのではないだろうか?
 そんなことを考えていると、
「苛めに遭ったら、逃げるしかない」
 という結論になってしまう。
 だから、不登校で、引きこもりが生まれるのだろう。
 家にいて、ゲームをしていればいいという考えが、引きこもりを産むのだろうが、
「どうせ、学校に行っても、勉強らしいこともできないんだ」
 と思ってしまう。
 確かに、勉強できないだけで、後は学校に用はない。大人は、
「他に学校にくれば、楽しいことや学ぶべきことがたくさんある」
 といいたいのだろうが、友達もいない。むしろ、苛めっ子か、傍観者しかいないわけだから、どこに行く必要があるのかということである。
 そもそも苛めというのは、
「傍観者がいるから、存在している」
 といってもいいのではないか?
作品名:もう一人の自分の正体 作家名:森本晃次