もう一人の自分の正体
だが、彼には、どちらかを選ぶということはできないようだ。
「どちらかを選ぶということは、結果、どっちも選んでいないような気がする」
といっているように感じられた。
「きっと、彼はどっちも選ばない。だから、私は選ばれることはないんだ」
と思っているのに、彼を諦めることはできない。
それは、
「自分で自分を放棄しているようなものだからだ」
といっているのと同じではないだろうか?
彼が、選べないというのは、
「ひょっとすると、どちらかを選ぶと、どちらかを抹消することになり、その時点で、自分が死んでしまうことになると思っているのではないか?」
と思った。
そして、他の人を選んだとしても、同じことであり、彼にとって、どちらか、いや、あるいは、二人に対して、平等に愛を注ぐということをしていかないと、生きる道がないのだとすれば、あの落ち着きは分からなくもない。あれは、彼にとっての、
「覚悟」
であり、
「腹を括っている」
ということになるのであろう。
苛めというもの
前章の話は、K市在住の、岡崎聡という人物の話であった。この岡崎は、自分のことを、最近、
「自分は、二重人格なのではないか?」
と思い始めたことから、このような発想になってきたのだが、実は、躁鬱症に関しては、中学時代から、その気があるような気がしていた。
それは、彼が中学時代に受けていた苛めがその証拠であり、
「俺のことを苛めている連中を、いつの間にか、他人事のように思うようになる時期があったのだ」
というものであった。
「感覚がマヒしてきてしまった」
というのが結構強い意識であったのだろうが、それは、苛められた時に感じる肉体的な痛みを感じなくなった時からだったような気がする。
最初に苛められるきっかけになったのは、何だったのか、ハッキリと分からないが、元々自分を苛めていた連中は、小学生時代からの友達だったのだ。
お互い、
「中学に入っても、仲良くして行こうな」
といっていた仲間であり、小学生の頃には、お互いがいつも孤独だったことで、自然と近寄ってきたのであって、中学に入ると、友達に、他のグループが接近してきたようだ。
そこで、その友達は、岡崎の反応を考えることなく、自分の意思で、近づいてきた連中の仲間になったのだった。
それは、まわりの連中と、
「共闘してきた」
と思っていた岡崎にとっては、裏切り行為に見えたのだ。
もし、逆に、まわりが近寄ってきたのが、岡崎で、岡崎がその誘いに簡単に乗ってしまうと、友達が、今の岡崎のような気持ちになったことは、一目瞭然のことだったに違いない。
それを思うと、
「どっちもどっちだ」
といえるだろう。
しかし、逆にいえば、どっちに近づいてきたかという違いだけであって、結果、二人の仲はこじれていたに違いない。
だが、それは苛めに発展することと、まったく別問題だと岡崎は思っていたのだが、友達からすれば、
「こっちは何もしていないのに、岡崎から睨まれた」
と思っているようであった。
「何もしていない」
という意識が、そもそも間違っているのであって、それこそ、
「どの口がいう」
ということであろう。
「先に裏切ったのは、向こうなのに」
と思っていても、結果はそうは繋がってくれない。
それこそ、発想としては、
「言った、言わない」
の世界であり、書面としての証拠が残っているわけではないので、誰にも仲裁ができるものではない。
誰も止める人がいないとなると、
「岡崎が一方的に攻撃されている」
ということになり、それを苛めだと認定し、まわりは、苛めに対しての身の振り方を考えるようになった。
苛めが発生した時の常套手段で、岡崎に味方をする人間は皆無だった。皆、考えていることは同じで、
「長い者に巻かれろ」
というのと同じで、岡崎は四面楚歌に陥ってしまったのだろう。
「しょせん、俺って、こういう運命なんだ」
と、思って、岡崎は諦めるしかないのだろうか?
「たぶん、タイミングが悪かったんだろうな? 先手必勝で、こっちが先だったら、きっと、立場は逆だったに違いない」
と思うようになった。
苛めもそのうちになくなった。
そもそも、苛めをする理由自体が、薄いものでしかなかったので、苛めをしている方も、そのうちに疲れてくる。
自分はしたことはないが、
「苛めというのも疲れるのではないか?」
と思うようになってきた。
それは、歴史が好きで、戦争や戦についての本を読むようになってから分かってきたことだが、
「理由のない、まるで因縁のような戦ほど、疲れるものはない」
ということが書かれていた。
だから、戦争にとって大切なのは、大義名分であり、戦争を行う意義がなければ、兵士はついてこない。
例えば、戦争を行うことによって、その論功行賞で、いくらの褒美が得られるかによって、士気の高さも決まってくる。
特に、鎌倉時代のように、
「蒙古来襲」
ということで、外敵から我が国を守るために行った戦争だったのだが、当時の、特に鎌倉時代における戦争というのは、封建制度が固まってきた頃だったこともあって、
「配下のものの土地を守ってやる代わりに、戦争になると、いざ鎌倉で駆けつける」
というのが、封建制度の主従関係のはずなのに、モンゴルのような外国から攻められて、いくら幸運にとは言っても、撃退することができたのだから、御家人たちは、幕府からの、
「土地という褒美を受け取る権利」
があったはずである、
しかも、御家人たちは、戦争の費用を、お金がないことで、借金をしてまでして出てきているので、褒美がないということはありえなかった。
だが、幕府としては、
「相手の土地に攻め入って占領した土地というわけではないので、御家人たちに与えられるだけの土地があるわけはない」
ということで、幕府側も、論功行賞に応じなかった。
そうなってくると、御家人の不満は一気に幕府に向いてくる。
これが、鎌倉幕府が滅亡するきっかけになった、直接的な原因であったが、これは、当然、御家人にとっては、許されるべきことではない。
借金をしてまで、徴兵に応じて、何とか兵の犠牲を出しながらも、撃退させたのに、借金を返すだけの金もなく、
「何のための戦だったのか?」
ということである。
つまり、この場合は、何とか撃退できて、事なきを得ることができたが、戦争において、大義名分は大きい。
幕末の戊辰戦争の時、兵力的には幕府軍の方が大きかったのに、新政府軍の方が圧倒的に強かったのは、
「自分たちが官軍だ」
ということが、名実ともに知らされたからだった。
その証拠が、天皇の軍隊だということを証明する、
「錦の御旗」
だったのだ。
これは、まるで、
「水戸黄門の葵のご紋」
に近いものではなかっただろうか?
日本における天皇という存在は、大東亜戦争で日本が敗戦するまで、どんなに政治の中心が武家にあったとしても、特別なものだった。
それも、今のような象徴などというものではなく、万世一系であり、その命令は、政府の命令とは別格の力を持っていたのである。
作品名:もう一人の自分の正体 作家名:森本晃次