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もう一人の自分の正体

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「同一次元に同じ人間の存在は、タイムパラドックスの観点から、ありえない。だから、その問題を解決するという意味で、必ず、10分という時間を設定し、それ以上近くもならないし、遠くにもならない。もし遠くになっていったとすれば、ある時、何かのきっかけで内に向きを向けるとしたら、いつかは交わってしまうことになる。だけど、最初から平行線であれば、それはあり得ることで、どこまで言っても交わらないので、普通の人は気づかない。気づいたとしても、ドッペルゲンガーを見たということであって、それを認めるわけにはいかないからね」
 というと、
「どうして認められないんだ?」
 というと、
「だって、ドッペルゲンガーを見た人間は近い将来、死んでしまうという伝説があるので、その伝説にさからわないようにしようということではないのかな?」
 という考え方であった。
 絶えず、10分の一定の差があるということで、まったく別の人間だと解釈する方が楽であろう。しかし、それぞれの二人を知っている男とすれば、唯一知っているということで、
「どうして、俺が選ばれたんだろう?」
 という不気味な考えに至るのではないだろうか?
「ドッペルゲンガーには、当然、証人を必要とするものだ」
 と、急にひらめいたかのように感じたのだ。
 ドッペルゲンガーという言葉は、意外と皆知っている。どこで知るのかまでは、その人によってさまざまなのだろうが、マンガやアニメなどのテーマで、よくあるものなのかも知れない。
 ドッペルゲンガーとは、昔から言われていた。
「自分に似た人が、世の中には三人はいる」
 と言われる、
「よく似た人」
 もことではない。
 それは、
「似て非なるもの」
 であり、ドッペルゲンガーというのは、
「もう一人の自分」
 なのだ。
 つまりは、
「同一次元において、存在してはいけない、同一人物」
 ということであり、それは、時間が違っていても同じことである。
 たまに、
「あれ? さっきお前、ここを通り過ぎて行ったばかりじゃないか?」
 と言われることがあるが、そんな時は、
「何言ってるんだ。俺は、今日、初めてここを通ったんだよ。俺のソックリさんでも見たんじゃないか?」
 としか言えない。
 そして、そういわれた言い出しっぺも、
「ああ、だったら、そうなんだろうな?」
 と認めるしかない。
 頭の中でその存在を認めてしまうと、ドッペルゲンガーの存在を認めてしまうことになり、今度は本当に、ドッペルゲンガーに遭遇しないとも限らない。ドッペルゲンガーは、その存在を明らかにされては困るので、目撃者や、一緒に存在している、相手にとっての、
「もう一人の自分」
 というものを抹殺しようとしてくるのではないだろうか?
 それを思うと、
「もう一人の自分の方が、自分の中で、影であるということを理解していて、本物にその存在を知られてしまうと、こちらが、本物を葬らなければ、
「自分がこの世から消えてしまう」
 と、思うのだろう。
 しかし、実際にそうだろうか?
 もう一人の自分を抹殺するということは、表向きには、
「自分という人間は存在してはいけない」
 ということになり、もう一人の自分である、本来の自分を抹殺するということは、ドッペルゲンガーである、自分をも抹殺することになるのではないか?
 つまり、ドッペルゲンガーというのは、
「本物の自分に見つかってしまうと、放っておけば、ドッペルゲンガーとしての自分の存在が消えてしまうと思って、本物の抹殺を考える。ドッペルゲンガーにはその能力が備わっている。確かに、ドッペルゲンガーは、本物に見つかると、自分がそのうちに消えてしまうのは間違いないので、一定期間の相手に、本物を抹殺するしか手がないと言われてきた。だから、本物の抹殺を試みるのだが、しかし、本物に見つかった時点で、ドッペルゲンガーの運命は消滅と決まっていたのだ。だから、ドッペルゲンガーが本物を抹殺した瞬間に、ドッペルゲンガーも消滅してしまう」
 ということになるのではないか?
 そうしないと、ドッペルゲンガーだけが、この世に残るという発想はおかしなことになってしまう。
 それこそ、
「入れ替わりの発想」
 であり、入れ替わってしまうこの考えは、
「カプグラ症候群」
 というものに、結びついてくるのではないだろうか?
 カプグラ症候群というのは、
「自分の家族などのように近しい人たちが、別人と入れ替わっている」
 と思い込む精神疾患の一種だが、ここでいう、別人というのは、
「もう一人の自分」
 である、ドッペルゲンガーとは別なのか?
 という発想になるのである。
 それにしても、10分先に、
「もう一人の自分」
 がいるというのは、何と気持ち悪いことなのだろう?
 小説では、その感情は押し殺して、10分前の自分に対して嫉妬しているところだけを浮き彫りにしていた。
 10分前の自分は、せっかく見つけた彼氏を独り占めにしていると思い込んでいた。いや、自分よりも先を歩いていて、絶対に追いつけないのだから、絶対的優位に立っているのは間違いない。
「下手をすると、手柄になるようなことをすれば、10分前の彼女の手柄であり、彼女が何か失敗をすると、その責任は、後に現れる自分の責任になってしまうのではないか?」
 という思いに駆られてしまう。
 まさにそうだった。
 本来なら、自分が本当の自分のはずなのに、ドッペルゲンガーの方が、完全に表に出ている。
 いや、10分先という、本物の自分よりも先にいる時点で、それがドッペルゲンガーであろうがなかろうが、本当の自分に置き換わってしまっているのではないか?
「まさかとは思うが、他の人には、この自分が見えていないのだろうか?」
 とすら思えてくる。
 他の人と一緒にいる時の自分は、自分が思っている態度をまわりの人に取っていないのかも知れない。もし、自分が自分としての態度を取っていれば、ドッペルゲンガーとの違いに気づき、
「何か、さっきの君とは別人のようじゃないか?」
 と、一人くらい言ってくるものだ。
 それがないのは彼氏だけで、彼は、最初から、ドッペルゲンガーの存在を知っていることで、違いがあるのは当たり前だと思っていることだろう。
「そういえば、どうして彼は最初から私にドッペルゲンガーがいることを知っているのかしら?」
 と思った。
 ドッペルゲンガーの言い伝えから考えると、ドッペルゲンガーの存在を知れば、知った人間も、近い将来に死んでしまうことになるのではないだろうか?
 それなのにm彼は平然としている。平然と、ドッペルゲンガーも抱くし、この自分も抱くのだった。
「身体はまったく同じだね。感じるところも、感じ方も、寸分変わりはない」
 と平気で言ってのける。
 恥ずかしくて顔から火が出そうなシチュエーションなのに、恥ずかしいわけではなく、それよりも、嫉妬で顔が真っ赤になっている。
 他人に対して感じる嫉妬ではない。明らかに自分に対しての嫉妬だ。しかも、男の口からは、
「身体は寸分違わない」
 と言われているのだ。
 そんな彼氏だったら、どっちを選んでも無理もない。
作品名:もう一人の自分の正体 作家名:森本晃次