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もう一人の自分の正体

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 今のように医学や心理学が発展してきている時代であっても、その元祖として、150年前の小説が生きてくるというのは、すごいことである。
 ジキル博士は、本当にハイド氏のことを知らなかったのだろうか? あくまでも、この話は、外部の人間の回想と、ジキル博士本人の告白から成り立っているのだが、ジキル博士が何を感じたのか、そこも、まるで他人事のような書き方をしているとすれば、話はまったく変わったものになっているのではないだろうか?
 果たしてジキル博士は、ハイド氏のことをどこまで理解しているのか? 薬を飲むことで、理性がハイド氏に則られるのだが、それは、ジキル博士が、ハイド氏を、
「あれは、自分であって、自分ではない」
 という風に、あくまでも、
「自分ではない」
 と思っていたのだとすれば、ハイド氏は、憑依したわけではなく、あくまでも、ジキル博士の意識の中でしか生きることができないといえるのではないだろうか?
 躁鬱症が。まったく違った性格であるということを、あくまで自分の中で感じることで、それが表に出てきて、まわりも、
「あの人は、躁鬱症なんだ」
 と感じさせるだろう。
 しかし、その時に、
「あの人は、二重人格だ」
 と言われることはない。
 つまり、
「躁鬱症というのは、二重人格だというわけでは決してない」
 ということではないのだろうか?
 逆にいえば、
「躁鬱症の人は、二重人格ではない」
 と考えるのは、乱暴であろうか?
 躁鬱症のように、両極端な状況に陥れているのは、あくまでも、精神をコントロールしている自分なのだ。性格にいえば、躁鬱症という病気に罹ってしまったことで、両極端な感情が生まれる。
「そう、二重人格は、一人の人間に二つの人格が存在するということであり、躁鬱症は、病気によって、両極端な感情が芽生えてしまうということであり、まったく別のものだ」
 といえるのではないだろうか?
 だが、二重人格だと思えるような人を見て、
「この人は、躁鬱症にはならない」
 と言い切れるだろうか?
 理屈から考えると、人格を形成している感情が病気に罹るということだから、その人格が二つあって、どっちの性格が病気になるかということである。
 考え方はいくつかあるが、基本的に
「どちらかの性格が躁鬱症という病気に罹るというものと、どっちも罹ってしまうということになるのだろう」
 だが、一つの性格が、躁鬱症を発症させているとしても、それを証明するのは難しいのに、性格が他にもあるとなると、考えるのが難しい。
 何と言っても、二重人格の片方は、隠れている時、完全に眠った状態になっているのだから、表に出ているもう一つの性格の感情が影響してくるとは言い難い。
 つまり、性格が入れ替わろうとする瞬間、性格が感情を吸収したまま隠れてしまうと、出てきた性格は、新たな感情を持って出てきたことになる。
「ひょっとすると、そこが、二重人格と躁鬱症の違いなのかも知れない」
 とも感じた。
 二重人格はその名の通りの人格であり、躁鬱症は、人格を形成しる中の感情が病気になったものだとすると、やはり、一緒に考えるのは無理がある。
 自分で、
「無理がある」
 と考えるのだから、やはり、この二つが並び立つことは難しいのではないかと感じるのだった。
 さらに一つ考えることとして、二重人格が、一つの身体の中で展開されているということである。
「どうして、一つの肉体に、二つの性格が共存しているのか? これは、躁鬱症のような病気ではないのか?」
 と考えてしまう。
 そもそも、二重人格という性格は、あまりいいものとして表現されることはない。
 まったく違うタイプが共存してこその二重人格なのだ。
 だから、人が持っている性格というのは、結構曖昧なものではないかと思えるのだ。本人が、
「自分は二重人格ではないか?」
 と思っているとしても、まわりから見ると、そんあ風には見えていないことだろう。
 それだけ、人の性格には、汎用性があるもので、幅の広いものだといえるのではないだろうか?
 そしてもう一つ言えることとしては、
「本人が感じている性格とまわりが見る性格では、まったく違うのではないか?」
 と感じることであり、この感覚は、
「自分の声を、発しながら感じている時と、録音した自分の声を聞いた時、まったく違ったものであることを自覚した時と同じだ」
 と感じることができるのではないだろうか?
 また、二重人格とも、躁鬱とも違った現象を、感じたことがあるという話を聞いたことがある。
 その人の話では、
「あれは、オカルト小説を読んだ時に、あくまでも小説のネタだと思っていたことだったんだが、その内容が、実際に自分のまわりに起こったことで、その話に信憑性があることだと思って、今ではすっかり信じるようになったんだ」
 ということであった。
「それは、どういう話なんだい?」
 と聞くと、
「あれは、小説の話としては、ある女が男のところに会いに行くんだ。そこで、その男に抱かれるわけだが、その後に、女がプレゼントといって、渡そうとしたものを手に取った時、それまで気づかなかったのだが、男のベッドの脇に、まったく同じものが置かれていて、一目で、それが同じものだと分かったというんだ」
「そう、それで?」
「女が、おもむろにいうんだ。『またあの女なのね?』ってね。それで、それを聞いた男が、無言で頷くんだ。その表情はまったくの無表情らしく、だから余計に、女には不気味に思えたという。その女は、ビックリすりというよりも、明らかに落胆しているようで、それを見ながら、男は、それでも無表情なんだって、女とすれば、何かを聞いてほしいのだろうが、男は何も言わない。ただ、男は、この部屋の前に来た女から、自分のことを殺してほしいと言われているのだろうと思ったというんだ」
「大体、それがどういうことなのか、読めてきたよ。その女というのは、『もう一人の自分』ということになるのかな?」
 と友達が聞くと、
「ああ、そうなんだ。その人物というのは、どうやら、自分の『10分前の女』として登場してきている様子なんだって。顔もまったく一緒なんだけど、性格はまったく違う。明らかに主従関係のように見えるんだけど、二人はあったこともないはずなので、主従関係というのは、おかしなことではあるんだろうけどね」
 というではないか。
 それを聞いてから、
「じゃあ、その女は、10分前にも存在しているということなのかな?」
 というと、
「そういうことだと思う。本にはそれ以上詳しくは書いていなかったけど、一つだけ言えるのは、『その二人の同一人物と思われる女を見たことがあるのは、その男だけではないだろうか?』ということなんだろうね」
 と言われて、
「それは、俺も同じことを感じた。まるで、同一次元の別の時間に現れる、もう一人の自分ということだよね?」
 というと、
「そういうことなんじゃないかな?」
 と言われたので、
作品名:もう一人の自分の正体 作家名:森本晃次