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もう一人の自分の正体

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「その中自体が四次元のようになっていて、もし、他の人がその場所を通っても、決してぶつからないように、ワームホールの都合で、その大きさを変幻自在に変えることができるのではないか?」
 と言えるような気がするのだ。
 しかも、行った先のイメージをテレビに写さないというのは、現在における、出口が想像できないからだというのか、それとも敢えて魅せずに、無限の可能性として、見ている人間に想像させるという発想からきているのではないだろうか?
 無限の可能性という意味では、行った先を見せないというよりも、時系列でいけば、いくら出発点が、未来であっても、原点は過去にあるのだ。それを思うと、未来だけを見せないというのは、時系列で広がりが未来にあるということを示しているのではないだろうか?
 つまり、パラレルワールドのパラレルということばの意味は、
「未来に広がる、無限の可能性」
 ということではないのだろうか?
 ということは、彼女に、10分前と10分後がいるということは、ある意味、
「ビフォーアフター」
 というイメージがあるのではないだろうか?
 たまたま、ビフォーとアフターが同じ人間であり、世間一般にとって同じ時間を基準に考えているから、二人は出会わないと思っているわけで、二人がこの10分の間に違う時間帯で出会うということは、逆にいうと、
「二人の間で、10分という時間は、自由自在になる時間であり、本来であれば、都合のいい時間のはずなのだが、どちらかが、そのことを分かっていないことで、まったく噛み合わない時間帯となり、ただ、遭遇しないだけが、唯一のいいことではないのだろうか?」
 と考えられるのだった。
 彼女たちは、10分という間で暗躍することになるのだが、他の人たちにとっての、
「もう一人の自分はどこにいるのだろう?」
 やっぱり、違う時間に存在していることで、絶対に会わないので、
「そんな人間は存在しているわけがない」
 ということになり、理解できないことになるのだろうか?
 そんなことを考えていると、岡崎は、急に、
「もう一人の自分の存在」
 を意識するようになってしまった。
 彼女に話を聞いてみると、岡崎の、
「もう一人の自分」
 というのは、見た目はクールで、最初はその魅力に惹かれるのだが、途中から怖くなって、抜けようとしても、抜けられなくなるようなパターンが多いという。
 だから、いかに、どこで抜けるかというのが問題であり、本来なら、女の方がそういう能力を有している場合が多いという。
 しかし、最近では、ホストクラブのキャストのように、
「女を騙すテクニック」
 のようなものを有しているので、男にも、
「訓練さえすれば、習得できるもの」
 だと言えるのではないだろうか?
 だが、問題はタイミングであって、どんなに抜けることができない相手でも、その人がその力を発揮できるようになるまでに抜けてしまえば、問題のないことであった。
 そして、今までほとんどのパターンで抜けてこられたので、事なきを得てきたもだが、もし、一人でも引っかかってしまうと、彼の存在が、もう一人の自分に分かってしまうことになる。
 お互いに、知らなかった相手を知ることになるわけで、
「もっと知りたい」
 と貪欲に感じるようになると、この思いが好奇心となって、膨らんでくる。
 もう一人の自分の存在を知るということはそういうことであり、あくまでも、ドッペルゲンガーとは違うものだ。
 ドッペルゲンガーも、もう一人の自分であるが、この場合は、
「お互いに相手の存在を知ってしまってはいけない」
 というパターンなのだ。
 お互いの個性がぶつかり合って、それぞれの存在を打ち消してしまう。まるで、自分の身体を尻尾から食べようとするヘビのようではないか。
「最後にはどうなるというのか?」
 最後には大きな矛盾が潜んでいることで、すべての矛盾が明らかになってしまう。
 タイムパラドックスにおける、
「ビックバン」
 のようではないか。
「もう一人の自分」
 の存在というのが、一つのパターンではなく、二重人格、つまりは、
「ジキルとハイド系」
 のような話であったり、
 ドッペルゲンガーのような、
「似て非なるものではない、本当の自分」
 であったりするのだろう。
 では、彼女のような、
「10分の間の自分」
 はどっちに属するのであろうか?
 岡崎が考えるのは、
「ドッペルゲンガーに近いものだ」
 と考えている。
 同じ人間をそれぞれが相手にしていて、その違いを分かっている。それは、肉体が、それぞれにあって、精神もそれぞれについているということなのであろう。
 では、岡崎自身はどうなのだろう?
 彼女がドッペルゲンガーであるならば、自分もドッペルゲンガーなのだろうか?
 いや、彼女の話を聞く限り、自分とは似ても似つかぬタイプであり、同じ人間として考えるなら、ギリギリの遠い距離に位置しているような感じなのではないかというではないか。
 となると、
「ジキルとハイド系」
 の二重人格なのではないかと考えるのだ。
 もう一人の岡崎の冷静沈着さは、10分前と10分後の女の両方に平等なプレッシャーを与えているようだ、
 ある意味、もう一人の岡崎の存在が、ドッペルゲンガーを何とか、表に出さないようにして、抑え込んでいるようである。
「あの人くらいの睨みがないと、きっと、私たちはお互いの都合で、考えるようになってしまって、収拾がつかなくなるかも知れない」
 と言っている。
「どういうことなんだい?」
「私たちは、別の時間にいるというだけで、結局性格も似ているのよ。だから、二人が会ってしまうと、必ず、どちらかだけが生き残ろうとして、収拾がつかなくなると私は思うのよね? お互いに生き残れるということを考えようとしない。それが大きな問題なんじゃないかって考えるのよ」
 というではないか。
「要するに、ドッペルゲンガーであろうが、ジキルとハイドであろうが、世の中には必ず対になる人が絶対に存在している。そのどちらのパターンなのかは分からないけど、それぞれのどちらかで存在しているんでしょうね」
「じゃあ、それを選ぶのは神様ということ?」
「いえ、私はそうじゃないと思うの。その選択権は、前世の自分にあるんじゃないかしら? 前世でも同じように、葛藤があって、生き残った人が、その世の中に君臨する。生まれ変わって次のよでも、また別人として生まれ変わっているわけだから、それが、ドッペルゲンガーなのか、ジキルとハイドなのか分からない。ただ一つ言えることとすれば、生まれ変わったのって、時系列通りでなければいけないわけじゃないの。たとえば、大東亜戦争で戦死した人が、生まれ変わった時、未来である必要はない。ひょっとすると、織田信長の家臣になっているのかも知れない。
 だから、記憶がないのであって、万が一にも記憶が戻ってくれば、一時的なデジャブを感じたりするのではないだろうか?
 だから、生まれ変わりに、
「時代をまたぐ」
 ということをするわけなので、タイムマシンなどという余計なものを作るというのは、おかしい。
作品名:もう一人の自分の正体 作家名:森本晃次