もう一人の自分の正体
ということは、後になって、
「以前、夢で見たような気がする」
と感じれば、それがすべて、予知夢に繋がってくるのである。
ただ、これは、デジャブという現象に酷似している。何かを感じた時に、ふと、
「前にも見たことがあるような」
あるいは、
「前にも感じたことがあるような」
という思いがあれば、それをデジャブというのだ。
「既視感」
というものでもあり、目で見たという「視」という言葉を使うことで、
「すでに見たことがあるような感覚が残っている」
ということになるのだろう。
ただ、視だけではなく、聴であっても言えることで、見たり聞いたり、さらには感じたこともありだとすれば、夢の世界では、何でもありのように感じるのではないかと思うのだった。
それは、
「残像が残っている」
という感覚もありなのかも知れない。
残像というと、暗いところに、光の筋のようなものが見えた場合の、まるで、空に残った、
「飛行機雲」
のような存在ではないか。
それを思うと、デジャブというのは、まだ、ハッキリと解明されていない事象であると言われるが、案外に近いところにある感覚なのかも知れない。
自分がドッペルゲンガーを感じたのは、最初は彼女に対してであった。
「同じ次元に、もう一人の自分」
しかも、つかず離れずの距離が微妙にお互いを引き合わないようにしているのは、時間というものの魔術をうまく利用しているのではないだろうか?
これを自然現象といっていいのか、何かの見えない力が働いていると考えないと、ありえることではない。
二重人格の発想もそうではないだろうか?
普通であれば、誰にでも大なり小なり存在する二重人格性、
「ジキルとハイド」
の話においても、あくまでも小説のお話、しかも、ジキル博士がハイド氏に変わるのは、自分で開発した薬によるものではないか、
ドッペルゲンガーというもの、何者かが造り上げた架空の話であって、実際には存在しないものではないかと思うのは、岡崎だけであろうか?
いや、もし、そうだとしても、
「火のないところに煙は立たない」
というではないか。
つまりは、ドッペルゲンガーも、何かそれらしいものがあっての伝説なのではないだろうか?
何と言っても、誰もが知っている言葉であり、自分は知っているのに、他の人が知っていると聞いただけで、
「お前も知っているのか?」
ということになる。
考えてみると、そんなに自分だけが知っていることが当たり前のように思うのもおかしなもので、それだけ、自己顕示欲のようなものが強いということなのか、不思議な感覚である。
自己顕示欲というのは、
「自分に自信がないという感情から、自分を目立たせて、他人の注目を浴び、自分を他人に認めさせたい」
という気持ちの表れだという。
これは、ある意味、
「ジキルとハイド」
にも言えるのではないだろうか?
ジキル博士は自分の中に、ハイド氏のような、いやらしい性格を見つけてしまった。だから、ハイド氏を呼びだして、それがどんなやつなのか、客観的に周りの人に見てもらおうという意識があったのかも知れない。
そう考えると、目論見は
「半分成功、半分失敗」
だったのかも知れない。
前半に、ハイド氏の存在、そしてハイド氏になった自分を客観的に見せるというところは成功であったが、まさか、ハイド氏がこれほど、自分とかけ離れた性格であるということまでは、計算外だったことだろう。
だから、自分でもどうすることもできずに、悩み苦しむことになるのだろうが、では、薬の開発自体は、成功だったのだろうか?
自分には失敗に終わったことで、その薬が表に出ることはなかった。
もし出ていたとしても、その危険性から、承認されないかも知れない。
しかし、ひとたび承認されてしまうと、まるで無法地帯のようになるだろう。今まで自分しか信じられないような人が、自分すら信じられなくなり、ハイド氏だらけになってしまうとも言えなくもないが、普段がハイド氏であれば、裏に潜んでいるのは、ジキル博士なのか知れない。
「裏は裏の世界を形成し、果たして、今よりもひどい世界となるのか、それとも少しはましな世界になるのか」
であるが、少なくとも、これ以上悪くはならないと思うところであっても、裏の世界は歯止めが利かず、結果、ロクなことにならないのではないかと思われる。
裏の世界の人間は、表の存在を分かっている。それだけに、裏の方が有利であろう。何しろ、これまでその人間の裏に潜んで、じっと表を伺っていたのだから……。
そんなことを思っていると、自分が、どうすればいいのかが分からなくなってくる。
ドッペルゲンガーの存在を、
「つまり裏に潜むもう一人の自分がいるのではないか?」
と考えている人は意外と多いのではないかと思うのだ。
ドッペルゲンガーの正体は、その存在を知ってからでも考えるのは、遅くはないだろう。
ドッペルゲンガーが、どうしてこれだけ知名度が高いのかというと、
「有名人や、著名人が実際に見ていて、その後、皆奇怪な死を遂げている」
という話が伝わっているからである。しかも、その話は、他の人であれば、簡単に信じてもらえないような話ではないか。
それを簡単に、信じるというのは、やはり、それだけ著名人の影響力は大きいということだろう、
そういえば、以前、小説を書いている人が、15年くらい前だっただろうか。いわゆる、
「自費出版系の出版社」
というのがあり、いわゆる、社会問題になって、世間を騒がせ、没落していった業界があったのだが、彼らは、ほぼ詐欺まがいだったことで、一つの会社が問題になると、一気に、2,3社の同時の自費出版社系の中での
「大手」
と言われるところは、一つ目が破綻してから、ほとんど2年以内に、潰れていった。
本を出したいという人から原稿を募り、持ち込みなどでは、読まれもせずに、ゴミ箱行きだったという状態を狙って、
「うちは、必ず読んで、批評もします。そのうえで、出版の判断をして、いい作品であれば、相談の上、本にします」
というやり方だった。
まず、それまで、出版社の目に触れるだけでも難しかった、出版への道に、一筋の光が刺したことで、ブームは一気にやってきた。
ちょうどバブルが弾けて、アフターファイブに残業もできない状態で、
「貧乏暇あり」
という人が増えたことで、カルチャーやサブカルチャー系の趣味に時間を費やす人が増えてきた。
それまで、小説を書くなど考えたこともない連中が、ブームに乗っかって、爆発的に増えた。
正直その、ほとんどは、最低限の文章体裁もなってないような内容で、
「本にするなど、ありえない」
というものであっても、
「共同出版という形で、本を出せる」
という振り込みにすれば、
「俺の本でも、少し手出しすれば、本にできるんだ」
と思い、さらに、
「本を出せば、有名出版社の編集長の目に留まって、ベストセラー作家になることも夢ではない」
などと言われれば、少々高いお金でも、
「作家になれるかも?」
などとおだてられれば、結構な人が、中には借金をしてでも、本を出すという人がいるようだった。
作品名:もう一人の自分の正体 作家名:森本晃次