もう一人の自分の正体
余裕があるはずなのに、高みを目指すということで、上しか見ていない連中の勉強量は、半端なものではない、そんなやつらの2倍はおろか、同じ量でもこなすことは絶望に近いに違いない。
それを考えると、果たして、簡単に教えていいのかどうか、疑問でしかないだろう、
特に進学校と言われるところは、正直、落ちこぼれた生徒を救済する必要はないと言ってもいいのかも知れない。
本当はそれでいいのかどうか分からないが、現実問題として、
「だから、受験があるのであって、自分の学力にふさわしいところに言っていれば、何の問題もなかったはずだ」
ということになるのだ。
これは、結婚にも言えることではないだろうか?
いわゆる、
「美女の野獣」
と言われるようなカップルがいて、そのまま、結婚したとしよう。
外野が見る限りでは、
「旦那がいつ、奥さんから愛想を尽かされるか見ものだな」
などと、口の悪いやつはいうかも知れない。
しかし、実際に考えてみると、本当に、この場合、旦那の方が不利だといえるだろうか?
というのは、
確かに、旦那は奥さんがキレイだと、浮気の心配を考えてしまうかも知れない。
ただ、旦那も、
「奥さんが浮気をするなら、俺だって」
と思う場合もあるだろう。
しかも、
「美人はすぐに飽きる」
とも言われる通り、実際に手に入れてみると、
「なんだ、こんな程度か?」
と思ったとしても、無理もない。
成田離婚の中にはそういう人だって含まれているかも知れない。
特に、奥さんのプライドが高い人だったら、
「私が結婚してあげたんだ」
という意識を持っているとすると、夫の方も、
「何言ってるんだ。こっちだって飽きずに付き合ってやっているんだ」
と思っている。
お互いに相手に対してマウントを取っていると思っていると、お互いに自我が優先してきて、相手を思いやるという気持ちが失せてしまうことだろう。
そうなると、もう、お互いが、
「交わることのない平行線」
であり、離婚するというところまではいかないが、このまま、お互いにマウントの取り合いをする夫婦生活になるだろう。
だが、これも面白いもので、中には、それを楽しんでいる夫婦もいるかも知れない。あくまでも、夫婦を続けているのが、波風を立てないという意味でいいのかも知れないが、そこに、
「マウント合戦」
といってもいいような、ゲーム感覚の遊びができてくれば、それなりに飽きも軽減されるかも知れない。
そのうちに、相手を見ているようで、見ていない状態になり、
「相手が何をしているかすら気にならない」
ということになって、完全な仮面夫婦になることだろう。
仮面夫婦も悪いことではない。結婚していれば、それなりに、いい面もあるだろうし、わざわざ離婚という面倒なことをする必要が、二人の間になければ、結婚というのは、ただの、
「暗黙の了解」
というだけのことにしてしまえば、後は何をしてもいいだろう。
どうせ、もうお互いに、嫉妬することもないだろうから、別に関係ないわ」
と思うことだろう。
嫉妬がすべてではないのかも知れないが、夫婦生活の中で、嫉妬すらしなくなったら、その時点で、
「仮面夫婦」
というのは、当たり前のことになってくるだろう。
お互いに不倫をしても、不倫相手に嫉妬することもない。そもそも、
「何で結婚なんかしたんだろう?」
と思うが、離婚するつもりもお互いにない。
意外と、
「美女と野獣」
というオアターンには、そういうのが多いのかも知れない。
「離婚は、結婚の数倍きつい」
と言われている。
離婚するに際して、そのきつさというのは、精神的なものが多いだろう。
まだ、お互いに、いや、どちらかに未練があったりして、
「やり直しができるのではないか?」
と思うからではないだろうか?
やり直しができないのであれば、結果として、早く別れた方が、お互いのためだったりする。
これは子供がいる場合においても、同じで、一長一短なのかも知れない。
子供がいれば、
「子供のために、別れない選択をできないだろうか?」
と考える場合もあれば、
「もう復旧が不可能だとすれば、早く離婚して、お互いに新しい人生を踏み出す決意をするべきだ」
ということになるだろう。
若ければ若いほど、やり直しの機会は増える。逆にいうと、
「それだけ、離婚回数も増えるともいえるだろう」
ということになる。
昔なら、
「バツイチ」
というだけで、恥ずかしくて表を歩けないなどと言われた時代があったが、今では、
「バツイチくらいは当たり前。却って、拍が付くくらいだ」
と言われる世の中になっていたのだ。
それは、社会の、
「終身雇用制」
というものと同じで、離婚も、どこか、転職に近いものがあり、結婚したらそれで終わりというわけではない。ダメな相手とはすぐにキレて、新しい相手を見つけることが大切だったりするのである。
それぞれのドッペルゲンガー
岡崎が、自分が分相応の学校に行かなかったことで、自分が行き詰ってしまい、少し自分に余裕を持てなくて、そのせいもあってか、気持ちの中の感覚が、マヒしてきたような気がしてきたのだった。
まわりの人間は、明らかに成績はいい。そんなことは分かっている。後は自分の身の振り方であるが、これは離婚よりも、実は難しいことであった。
勉強についていけず、落ちこぼれていくのは、仮面夫婦として、まわりを騙して暮らしているのと訳が違い、リアルに困った問題を引き起こす火種になっているのだった。
当然、テストの成績は悪いだろうし、授業にもついていけなくなる。
ただでさえ、今も勉強についていけていない。それが、最初に無理して入ってしまったことと、そのことを自覚できていなかったという証拠だろうからである。
勉強もままならず、学校にいるのがこれまた苦痛だった。
しかし、彼はそのうちにその感覚がマヒしてくるのだった。
「別にきつくないわ」
と思うようになっていた。
「成績が悪いなら悪いで、学校側が退学でも言ってくればいつだって辞めてやっていいんだ」
というばかりに、開き直りを感じていたのだった。
勉強ができないだけではなくクラスの皆から、白い目で見られるというのもあるのだが、それも、別に気にならなかった。
中学時代の苛めや、不登校に比べれば、まだマシだと思っているからなのかも知れないが、それでもストレスが溜まってくるのは、どうすることもできない。ただ、意識がマヒしているだけで、自分の身体が蝕まれていうのをまったく気づいていないだけのことだったのだ。
「末期がんのようだ」
という感覚なのかも知れないが、それは数十年後に感じることではないだろうか?
それを今感じたということは、
「まるで、予知夢を見たかのようだ」
と感じるからであって、
そもそも、予知夢というのがどういうものなのか、その存在すら疑わしいと思っていた。
予知夢というのは、これから起こることを、前もって見るというもので、実際に夢を見た時は、これから起こることだという意識があるのかないのかも分からない。
作品名:もう一人の自分の正体 作家名:森本晃次