もう一人の自分の正体
「学校に通学する:
というだけで、まったく違うのだ。
ただ、高校生になったからと言って、何かが変わったというわけではない。むしろ同じだからこそ、違う感覚がするのだった。
高校に入ってから、ずっと暗い毎日が続いていた。これは、中学時代と違って、まわり全体が暗いということを感じるからで、中学時代との大きな違いはどこにあるのかということを考えていると、少し考えて分かってきた。
中学時代は、基本的に、住まいによって、校区というものがあり、義務教育ということもあって、どんなに成績が悪かろうが、学校にはいかないといけない。
(岡崎のように不登校という場合もあるが)
ただ、成績の良し悪しで、そんなに雰囲気が変わらなかった。それはきっと、
「いろいろな人がいて、仕方がない」
ということが分かっていたからだろう。
しかし、高校に入学すると、少なくとも、受験というものが存在し、そこでふるい分けが行われる。
レベルの高い学校ほど、偏った生徒が固まるという傾向にあるのではないだろうか?
あくまでも、
「レベルの高さ」
というのは、学力のことであり、成績の良し悪しだけで決まるものだ。
つまり、中学時代、いくら毎回トップの人間であっても、有名進学校に入れば、
「中の下」
くらいでも、当たり前だったりするだろう。
それまで、トップであるということを自慢に思っていたならば、きっと、
「天狗の鼻」
をへし折られた気分になることだろう。
鼻をへし折られたことで、自分が、どれほど無謀なことをしたのかということをその時になって初めて思い知るのだ。
たぶん、
「合格ラインぎりぎりのところだから、無理せずにワンランク落とした高校を目指す方がいい」
と担任に言われることだろうが、
「いえ、大丈夫です。チャレンジしてみたいんです」
と言って、何とか受験をして、合格することができれば、その時点で、皆、ハチの巣を叩いたような騒ぎになるかも知れないほどの大事件であった。
「正直、難しいと思っていたんだけど、お前が合格するとはな」
と親戚などから言われることだろうが、その時、本人や家族は。
「何とかすり抜けるようにしてでも、合格することができたんだから、よかったじゃないか」
と言われることだろう。
しかし、それは、
「合格することが、ゴールだ」
というのであれば、それでいいのだが、実は、
「合格した時点で、スタートラインに着ける資格を持った」
というだけのことであり、まだスタートラインにもついていないということになるのであった。
あくまでも入試というのは、
「入学試験」
のことで、合格することがゴールではない。
入学してからが、スタートであり、受験という凌ぎを削ってきた連中が入ってくるのだ。考えてみれば、合格ラインぎりぎりだったわけなので、合格ラインが50点だとすれば、皆は70点以上くらいは、普通に取れる学力を有しているだろう。何しろ、無理してレベルの高いところを受験したわけではないのだ。無理をしているのは、こちらであり、自分の学力で、50点以上のこともあれば、50点を切る時もある。そういった時、今回の入試を受験するにあたり、考えることとすれば、
「知っている問題ばかりが、出てくれることを願う」
という半分神頼みであった。
何氏と、神頼みでもしないといけないほどの学力なので、それもしょうがないことではないだろうか。
実際に死県を受けて、そういう意味で合格できたというのは運がよかったのだろう。
下手をすると、自分のかわりに、合格するはずだった人が、その日たまたま体調が悪いか何かでテストができなかったのかも知れない。
あくまでも、順当なところで考えて、自分は合格ラインぎりぎりだったと考えればいいわけで、そうやって考えると、合格できなかった人たちを切ってしまうと、自分が底辺であることは、疑う余地もないことなのだ。
そんなことは分かり切っていたはずなのに、ほぼ奇跡と言われるくらいに合格などしてみれば、身分相応の気持ちではいられないのも無理もないことだろう。
成績が悪かった連中は、もういないのだ。ふるいに掛けられて、ギリギリで踏みとどまった人間は、どこまで言っても底辺でしかないのだ。
いつも、ギリギリのところで、ウロウロしている。成績が悪いからと言って、退学にならないだけましだというもので、試験があるたびに、補習を受けさせられ、
「補習で勉強したとしても、その場の月焼き場でしかなく、次の試験の時に役立つわけではない。あくまでも、このまま放っておけば、分からないまま進むことになるので、次回も土俵に上がれるだけの、最低限の補填をしているだけだ」
ということなのだろう。
だから、受験でギリギリの成績を突破して合格できたというのは、その時は、それでよかったのだろう。
しかし、それはたまたまその時、合格できただけで、自分が劇的に頭がよくなったわけではない。それを過信して、頭がよくなったなどと思い込んでしまうと、実際に入学してから、まわりのレベルの高さと、今までの自分とを比較してしまって、
「そんなはずはないんだが」
と、その時になってビックリさせられる。
特に最初の一学期の中間テストなどで、それが顕著に出るだろう。
そもそも、テストのレベルも中学までとは、全然違う。何しろ、普段の授業でも、
「俺は、普通に勉強していれば、簡単に合格点が取れるんだ」
と思って、かなり甘く見ていた。
しかし、他の連中は、貪欲に、成績を上げるための努力を惜しんでいない。そこに差が出てくるのだ。
この差がどうして出るのかというと、
「目的の違い」
というものから出てくるのだった。
他の連中は、一年生の頃から、大学受験に焦点を合わせて、先々の勉強をするくらいのとは当たり前であった。
高校の夏休みが終わるくらいまでには、一年生で習うことはマスターするくらいの意気込みでいたりする。
高校もレベルに関係なく、同じ内容のカリキュラムなので、進学校になればなるほど、先に進むことは当たり前だろう。
それを分からずに、
「一年生の間に一年生で習うことを習得すればそれでいいんだ」
などという考えが、お花畑の発想であるということにまったく気づかない。
しかし、実際には、そんな、
「当たり前の勉強」
だけをしていれば、いつの間にか置いて行かれるのは必至であり、当たり前のことなので、先生もいちいち指摘はしない。
それどころか、
「それくらいのことも分からないで、この学校でやっていけるというのか?」
と思っているに違いない。
これは、先生が悪いわけではない、先生の考えていることはもっともであり、実際にこれくらいのことが分からなければ、このレベルについてくることは不可能だといえるだろう。
だから、なまじ、情けを掛けて、生徒に教えたとしても、それはあくまでも、
「その場しのぎにしかならない」
といえるだろう。
本人が自覚して、成績を上げることを意識しないでいると、成績が上がるどころか、ついていくこともできない。
特に、ギリギリの人間にとっては、人の2倍も3倍も勉強しないといけないのだ。
作品名:もう一人の自分の正体 作家名:森本晃次