もう一人の自分の正体
結局はどちらも、言っていることは、両極端のように思えて、そこに矛盾を感じるのだが、どちらも、本人が奈落の底に落ちていることを自覚しながら、
「まだまだ先のことだ」
と油断させることに意義があった。
その油断を油断とは思わず、余裕だと思わせることが、この場合の目的ではないかと思うと、矛盾は矛盾ではなくなるのだった。
そんなことを考えていると、
「10分先と、10分後を生きている彼女は、どっちが本当の彼女なのだろうか?」
と考えていたのだが、そもそも、そう考えることに無理があるのではないかと考えるようになっていた。
というのも、
「どっちも本当の彼女ではないか?」
という考えに至らないのはどうしてなのかということである。
確かに、同じ次元に同じ人間が存在しているということは、ドッペルゲンガーでもない限りありえないことだ。
しかも、その二人は、完全に時間を10分という微妙な間隔で、生きてはいるが、そのおかげなのか、絶対に会うことはないのだった。
10分先の女は、絶対に、10分後に、10分前にいたその場所に戻ってくることはない。
戻ってくれば、鉢合わせをすることが分かっているからだ。
10分後の彼女は、そうするだけで出会うことはないのだ。
そういう意味で、10分後の彼女には、
「選択権はない」
と言ってもいいだろう。
彼女が、自分の意思で選んでいると思っていることであっても、結果として、
「10分前を追いかけている」
ということになるので、すべての選択権は、10分前の自分にあるのだ。
それでも意識の上では。
「自分の意思が働いているのだ」
という思いに変わりはない。
それも大きな矛盾なのだろうが、本人は矛盾だとは思っていない。
何か特殊な考え方が備わっていて、この考えが間違っていないということは分かっている。それは、10分前にもう一人の自分が存在していることを分かってのことだった。
ということは、
「生まれた時から、私の中に、10分前の自分の存在を意識させる要素が備わっていて、そのことにいつ気づくかということが問題なだけであった」
といえるのではないだろうか?
ただ、このことは、そこまで重要なことではなく、10分前の自分の存在に気づいた時、必要以上にビックリしないということのために、最初から用意されていたシナリオに過ぎないのだと感じるのだった。
そのシナリオをいかにうまく使うかということが問題なのだが、10分後の彼女は、少なくとも、その能力を持っていたのだろう。だから、10分前の自分を意識していても、その気持ちの中に余裕があるため、最初は、どうしていいのか戸惑っているが、時間が経てば慣れてくるのか、意識は次第に薄れてくる。
「では、10分前の女はどうなのだろう?」
今から思えば、彼女の方は、そんな能力を有していないのではないだろうか? その代わり、普通の人間が持っていない能力が備わっている。
「10分後の彼女は、実に人間らしく、彼女ほど人間らしい人間はいない」
ということであればあるほど、10分前の彼女は、それだけ、人間らしくないと言ってもいいだろう。
しかし、
「人間らしさとはなんだろうか?:
人間らしさというと、
「優しくて、頭がよくて、理性が利いて、思考に長けていて……」
などと、いろいろ言えるのだろうが、ある意味逆ではないだろうか?
「ずる賢くて、悪時絵が働いて。嫉妬深くて、頭がいいと思い込んでいるくせに、その分、自分に自信が持てなくて……」
そんなのが、
「人間くさい」
というのが、一般的なのではないだろうか?
そう思うと、今まで自分が感じてきた、
「人間くささって、どっちだったのだろう?」
ということを考えさせられてしまう。
つまり、優しさというのが何なのかということを考えていると、
「相手に迷惑をかけないことであって、それが相手のためになるのかどうかは、二の次だ」
という考えを持つことでないかと思うことがあった。
というのも、
「迷惑を掛けない」
というのは、あくまでも、自分中心の考えであって、
「相手のためになることなのかどうか?」
ということの方が、相手を思っていることであろう。
本来ならこちらを優先させるべきなのに、優先させられないのは、自分の言い訳に正当性をつけるためだ。
こうやって考えると、人間臭さというのはある意味は、
「自分がしていること、しようとしていることに、いかに言い訳を付けられるかということであり、それができるできないは、考え方一つなのではないか?」
と考えてしまうのだ。
「言い訳のため、そもそも、人間臭さという言葉も、どこか言い訳っぽいではないか? 人間というのは、それだけ言い訳をするために生まれてきたようなものであり、それを人間臭さということ自体がいいわけであるという、ここでもまた、スパイラルを繰り返すのであった。
そういえば、ドッペルゲンガーという言葉を最初に聞いたのは、いつ頃だったのだろう? 今から思えば、そんなに昔ではなかった。
もし、子供の頃であったら、ドッペルゲンガーなどという難しい言葉、簡単に覚えられなかっただろうから、意識の中で、
「難しい言葉だ」
というものは残っていたに違いない。
その意識は確かになかった。あったとしても、2,3度聞けばすぐに分かったような言葉だったので、少なくとも、高校生以降だっただろう。
そこまでは分かっているが、それが正確にがいつだったのか分からないということは、それだけ節目になるような時期のことを、自分で意識していないで、適当に生きてきたということなのだろう。
中学時代は、引きこもりだったこともあって、そういう傾向にあったが、高校に入ってからは、そこまではなかった。
高校は、自分の成績にふさわしいところに行けた。不登校だったのに、
「よく、合格できたな」
とまわりから言われたが、別に不登校で、ゲームばかりしていたとはいえ、勉強をしていなかったわけではない。学校で習うくらいの勉強は、独自でもできたのだ。
何とか成績にふさわしいだけの高校を受験して合格できたのは、自慢してもよかったのではないかと思う岡崎だった。
高校に入ってからは、不登校になることもなかった。そもそも、自分を苛めていた連中は、自分よりもレベルの低い学校で、
「中学を卒業すれば、会うこともないだろうな」
という思いもあって、不登校ながらに、勉強はしていたのは、そういうことも意識していたからだった。
案の定、やつらは、程度の低い学校に行き、程度の低い連中とつるむことで、まともな高校生活など送れるはずもなく、今はどうなったかもわからない。
どうせ、同窓会にも顔を出せるはずもないだろうから、皆、あの連中がどうなったのか、関心もないだろう。関心があるくらいだったら、もう少し、苛められている自分に対して見る目の違っただろうと思うと、傍観者に対しても腹が立ってきた。
そうなると、キリがないだろうから、ここから先は余計なことになるわけで、考えないようにするのが一番無難なことだったのだ。
中学時代と、高校時代はまったく違った毎日だった。何と言っても、
作品名:もう一人の自分の正体 作家名:森本晃次