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もう一人の自分の正体

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 しかし、その二つの距離から、相当遠くに第三の星が存在しているとすれば、その二つの距離は、ほとんど変わらないように思うのではないだろうか。
 この発想は、人間にもあることだ。
 たとえば、15歳と25歳という10歳の年齢差がある人がいるとして、30歳から見ると、15歳と25歳であれば、かなり遠い年齢に感じられる。
 しかし、自分が、60過ぎてから、この二人を見ればどうだろうか?
「ほぼ同じ年齢」
 とまではいかないまでも、
「30歳から見るよりはかなり近くに感じられる」
 と思うに違いない。
 なぜ、こんな感覚になるかというと。
「自分が、15歳も25歳も経験していて、それを通り過ぎてからの今まで歩んできたことを分かっているからだ」
 といえるのではないだろうか?
 実際の距離感の錯覚もあるだろうが、何よりも、
「自分が経験してきた」
 という経験値というものが、大きな影響をもたらしているのである。
 それを思うと、年齢差というもの、それに伴う錯覚、そして、経験値。それぞれ、さまざまな考えが入り混じって、答えが出ているのであろう。

                 分相応の問題

 自分の彼女が、10分後なのか、10分前なのか、どちらかに存在しているということを、普通なら俄かに信じられるわけもないだろう。
 もちろん、信じるだけの信憑性もない。
 逆にそれだけに、気が楽なのか、信じてみようか? という気になったのかも知れない。
 しかし、あり得ることではないということは、歴然としていて、それを信じられるということは、それだけ、感覚がマヒしているからなのかも知れない。
 マヒしている感覚は、以前、読んだ小説の中に、自分を引きずりこんでいる。感覚がマヒしているということを言い訳にして、前に進めないことを、正当化しているのかも知れない。
 最近彼女は(正確にいえば、10分前を歩く彼女の方であるが)。
「結婚したい」
 ということを切望している。
 実際には、10分前の女は、どちらかというと、そういうことは口にしない女だと思っていた。
 引っ込み思案なわけではなく、思っていることであっても口にしないのは、それだけ、自分に自信があるからではないかと思っていた。
 自分に自信があるから、
「私が言わなくても、そのうちに、相手が言ってくれるから、焦っていう必要もないし、焦らない自分を見せつけることで、まわりの人間の信任を得られることになるのだ」
 と思っているような感じだった。
 その自信が余裕に繋がり、逆に冷めているようにも見えている。普段は焦ることのない岡崎だったが、たまに無性に焦っている自分を感じる。そこが、自分のことを、
「二重人格だ」
 と思わせるのだろうが、逆に子供の頃から思春期までの自分の生き方があまりにもポンコツで、
「このあたりで、気持ちをリセットさせたい」
 と思っているのかも知れないのだった。
 二重人格というものが、中学時代までの自分でもあったのだという意識はあったが、それを感じなかったのは、今から思えば、
「感じることが怖かったからではないか?」
 と感じるのだった。
 二重人格だということを認めてしまうのは楽である。
「二重人格だから、あんな情けない自分が存在したのだ」
 という言い訳ができるからで、しかし、その言い訳は自分だけにしか通用しない。
 それであれば、最初から二重人格など存在したわけではなく、
「普通の少年だった」
 と思わせて、その思いが後は、忘却の彼方にさらっていってくれることを望むだけだったのだ。
「人のウワサも七十五日」
 このことわざの意味が、そのままこの状況に当て嵌まるのかどうか分からないが、しっくりきている気がする。
 そのため、
「このことわざというのが、汎用性があり、いろいろな解釈のできるものなのではないだろうか?」
 ということを考えさせるような気がしてならないのだった。
 そんな子供の頃の自分が、まさか大人になって、できた彼女から、おかしな感覚にさせられるとは思ってもみなかった。
「彼女ができないのではないか?」
 と、そもそもは考えていた。それだけ、中学時代までの自分はおかしな性格だったということだ。
 小学三年生の頃、異性に興味もなかったのに、まるで主従関係のような女の子がいたのは、前述のとおりであるが、その時のことを、いまだに忘れてはいない。
 ただ、今から思えば、彼女のことを本当に異性として意識をしていなかったのかどうか、それは疑わしいという思いだった。
 今ほどの、意識ではないだろう。
 今の異性に対する意識は、完全に、肉体をも含んだことであって、相手に対して、よこしまな気持ちを抱いていないというとウソになる。
 いや、抱いていないという方が、むしろ変なのだ。それが思春期を通り越してきたということであり、思春期を通り超えることは、人間の数だけ存在することでもあるのだが、逆に、
「人間の数だけのパターンが存在するということ」
 でもあるのだ。
 つまり、一人として、同じ思春期を通り越してきた人はいない。同じに見えるが、微妙にすべてが違っている。しかし、そのことを皆意識していない。意識しているとすれば、
「皆、思春期は違うものだ」
 という意識であり、それを当たり前のことだと思っている。
 そのくせ、他の人を見ると、同じように見えるのはどうしてだろう? それが矛盾となるわけだが、思春期にはそういう形の矛盾というのは、数多く存在しているのだ。
「まるで、マルチバースのようだな」
 というやつがいた。
 その友達は、大学では文系だったのだが、やたら科学のことや、宇宙のことに興味を持っているやつで、彼曰く、
「実際に専攻しているわけではないだけに、興味を持って、より以上に勉強できるのさ」
 と言い訳のように言っていたが、まんざらいいわけでもないような気がしてきた。
 大学時代に勉強したことは、社会に出て通用するためのものだと思っていたが、実際に社会に出てから、ほとんど役立ったというものではなかった。
「じゃあ、なんで大学に通ったりしたのだろう?」
 という疑問を抱いたが、それ以上は追求しなかった。
 答えが出ないのは、何となく分かったからだ。
「どうして、答えが出ないと思ったのか?」
 と聞かれたりすれば、答えは決まっているような気がする。
「それは、堂々巡りを繰り返すからだ」
 ということであろう。
 しかも、普通の堂々巡りではなく、そこには立体感が存在する。
 というのは、
「らせん状にきりもみするように、落ちていくからだ」
 と考えたのは、理由が二つあった。
 一つは、
「下に下がっていることを意識させること」
 と、もう一つは、
「下がっているのだが、らせん状であれば、叩き落されるわけではないので、そのうちに何とかなると思わせておいて、結果何もできずに、終わってしまう」
 という、二つの矛盾したことに由来してくる。
 ただ、共通点もある。
「どちらも、本人の油断を誘うものだ」
 ということである、
作品名:もう一人の自分の正体 作家名:森本晃次