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もう一人の自分の正体

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 結局その時、一緒にいた女の子と、ずっと平行線のまま、歩み寄ることはできなかった。
 相手も、まるで、
「近寄らないで」
 といっているかのように見えていて、近づけば、お互いに、電流が走って、弾き飛ばされるかのように感じたのかも知れない。
 そうなると、近づかない方がいいに決まっている。ただ、そこに残ったのは、やるせなくも、果てしない、
「無為な時間」
 だけではないだろうか?
 そんな時間というのが、果たしてどれほその長さのものなのかというと、
「もう、一時間くらいは経ったような気がするのに、5分しか経っていない」
 というくらいの差なのではないだろうか?
 そう、時間の感覚というのは、皆さまざまなのだ。しかし、必ず、相手とその時間を距離にすると、
「それ以上もそれ以下も近づくことのできない平行線が、結界として、そこに横たわっている」
 と考えられるものが存在しているのだ。
 それが、今付き合っている彼女であり、彼女をそんな風にしてしまったのは、
「かつての、自分が、招いた呪縛なのではないか?」
 と思うと、もう逃げることができないと感じ、それがプレッシャーからトラウマになり、カウンセリングから、神経内科へと、エスカレートさせることになるのだった。
 今年になって特にその思いが顕著になってきたのは、
「彼女には、もう一人の彼女がいるのではないか?」
 と感じるようになったからで、この思いが始まったのはいつからだったのか? 意外と知り合った時からだったのかも知れない。
 そもそも、
「彼女が二重人格なのではないか?」
 というところから始まった発想だった。
 それは、別に普通にある発想で、別に珍しいことではない、むしろ二重人格であるのは、
「彼女であるがゆえに、困ること」
 という感覚であった。
 だが、それは、まったく違った。違ったということを感じてから、
「どうして二重人格だなんて思ったんだ? そっちの方がまだマシだとでも思ったのだろうか?」
 たった今、
「二重人格というものが、彼女であるから嫌のだと感じたはずではないか?」
 と思ったのだ。
 ということは、二重人格でもいいから、という考えが心のどこかにあったということなのか?
 彼女は、二重人格どころか、性格的には、まったく同じなのだ。気持ち悪いくらいに同じなのに、なぜか、同一人物には見えないという、ある意味、二重人格よりも恐ろしいといえることなのではないだろうか?
 二重人格であれば、それこそ小説の、、、
「ジキルとハイド」
 のように、同じ人間の中に、二つの人格がいることで、引き起こされる悪夢という、フィクションではないか。
 実際には起こりえないことであり、実際に起こったなどという話を聞いたことがない。
 確かに猟奇殺人を平気で犯すような人間は、すべてが二重人格なのだろう。彼らだって、最初から殺人鬼だったわけではない、ある日突然に、二重人格が目を覚まして、覚醒したのかも知れない。
 だから、あんな風に乱れてしまって、結局、悪魔を作る出す結果になったのではないだろうか?
 それを思うと、
「こんなことはフィクションでもなければ起こりえない」
 といえるのだろう。
 だが、そんな彼らだって、成人して、殺人が犯せるまで、何もせずに、必死に我慢してきたということか?
 それならば、どうして、もう少し我慢して、死ぬまで我慢しきれないのか?
 と思うが、これが本人の運命であり、巻き込まれた人も、すべて運命だということで片付けて、果たしていいのであろうか?
 ただ、その時までは、必死で我慢できても、我慢できない結界があり、その瞬間、我慢の限度を超えたといってもいいだろう。
 彼は、結界を超えるだけの力を有した。そして、結界を超えることで、売り渡した魂が開放され、一気に思いのたけをぶちまけたのだ。
 その後、彼がどうなるのか? どっちにしても、このまま生きていることはできないだろう。
 人間に駆逐されるのか、それとも、自らで命を絶つのか、それとも、もう一人の自分に殺され、もう一人の自分は自殺をすることになるのか、
「俺も死んでやるから、お前も観念しろ」
 とでも言われるとすれば、それは、一番最後のことであろう。
 それを思うと、
「やはりこれは絵に描いたような話しか思い浮かばない、フィクションの域を出ることはない」
 ということになるだろう。
 となると、彼女は二重人格などではなく、逆の見方として、
「ドッペルゲンガーのような発想のものだ」
 といえるのではないだろうか?
「まったく同じ人間が、同じ次元に存在している」
 という発想であるが、ただ一つ言えるのは、
「その二人が遭遇してしまうと、ドッペルゲンガーではない、本人が死んでしまうことになる」
 といえるのではないだろうか?
 ただ、この発想は、二重人格の
「ジキルとハイド」
 の発想よりも、可能性は低い、ダントツで低いといってもいいだろう。
 この時思い出したのが、以前に読んだ、
「10前の自分」
 という小説だった。
 彼女が、
「その10分前の女という話のモデルではないか?」
 というような発想を持ったのだった。
 確かに彼女は、さっきとは、まるで違う人物のように感じられることがあったが、なぜそう思うのかというと、
「たった10分しか経っていないのに、まったく覚えていないことがある」
 からだったのだ。
「ん? 俺と似ているのか?」
 と最初は思った。
 岡崎も、たった10分とはいえ、記憶を失うには、ありえない時間ではなかった。
 だが、それも、よほど精神的に疲れていたり、状況がそういう雰囲気を作り出さなければ、記憶を失くすなど、なかなかできることではない。
 しかも、それが意識的であることは不可能だった。そういう意味でも、
「限りなくゼロに近い可能性」
 でなければいけないのではないだろうか?
 そんな状況が、身近な人に起こるというのは、あまりにもできすぎていることであり、ひょっとすると、
「自分だけが、考えていることであって、本当なら、他の人にも起こっていることであり、そのことを知らないのは、自分だけなのかも知れない」
 という飛躍した思いまで持っているくらいだった。
 だが、さすがにそれもないだろうと思い、すぐに否定したのだが、どこまで信憑性のあることなのか、自分でも分からなかった。
 そう思うと、自分が覚えられないということと、彼女が覚えていないということは、別の原因が考えられるのではないかと思う。
 ただ、これも、逆に、
「そんな稀な現象が、頻繁にいくつも存在しているというのもおかしなことではないだろうか?」
 とも思えたのだ。
 確かに、人の記憶というのは、ある意味、
「消耗品だ」
 といってもいいだろう。
 星と星の間が、等間隔であったとして、宇宙におけるその2星間の距離を第三の星から、見ているとすれば、距離が近い時と、遠い時で、まったく違った感覚になるというのを、考えてしまう。
 二つの星が、普通の距離だったとして、その梁上の星に同じくらいに極端に近い星だったとすると、その二つの星は、
「結構距離があるのではないか?」
 と思うだろう。
作品名:もう一人の自分の正体 作家名:森本晃次