もう一人の自分の正体
そんな子供の頃、
「座敷わらしを意識することが、自分の都合の悪いことを記憶から抹殺することと関係があるなんて」
と、自分でどこまで分かっていたのだろうか?
少しは分かっていたような気がするのだが、実際にどこまで分かっていたのかということも、分からない、
それも、都合の悪いことは、記憶から抹殺する」
という意識が、そうさせたのかも知れないといえるだろうか?
そんなことを考えていると、彼女を一人にして、置き去りにした自分に、自己嫌悪を感じていたのだが、実はそうではなく、
「これは、無理のないことだったんだ」
と、考えれば、どれほど自分が救われるかということである。
罪は罪だろうが、この際、彼女が悪いことをされたと思っていないのであれば、その思いに甘えてもいいのではないかと感じるのだった。
そんなところが、
「自分勝手だ」
と言われるのかも知れないが、本当にそうなのか?
そこに、二重人格性が入っていないか?
そんなことを、考えてしまう岡崎だった。
10分後の女
最近になって岡崎は、心療内科に通うようになった。それまでは、カウンセリングを受けることもあったが、それ以上のことはなかった。
買うセリングを受けるようになったのは、28歳くらいの頃からだっただろうか? 何をするにも面白くないというのが、その理由で、最初、カウンセリングで聞いた話としては、
「精神的に飽和状態なのではないか?」
ということだった、
「どういうことですか?」
と聞くと、
「満たされすぎて、感覚がマヒしているようなことはありませんか?」
ということだったのだが、正直、そんなことはまったくなく、何よりも、
「満たされている」
と思われることが、辛かったのだ。
「満たされているって、そんなに俺は、幸せなんかじゃない」
というと、
「例えば、趣味を何かしていて、充実していても、満たされているということになるんだよ。趣味をしていなくても、満足できていれば、それがもし、マヒしている感覚だったとしても、それは、飽和状態にあると言えるんだ。ひょっとして、間隔がマヒしていると思うことが最近はあるんじゃないかい?」
と言われた。
「うーん、そういわれて考えてみるんですが、そんな感覚はないですよね?」
というと、カウンセラーも、
「どういえばいいのか?」
と考えているようだった。
自分では、まったく満たされているわけではないのに、あたかも満たされているというようなことを言われると、正直、心外な気がする。
満たされてもいないのに、満たされているなんて、それこそ、ストレスが余計に生まれる結果にしかならないだろう。
それを思うと、自分が期待していることをまったく相手が考えていないということが、どれほど虚しいことなのか、分かった気がする。しかも、相手が、心理を読む専門家といってもいいようなカウンセラーであれば、余計にそう感じてくる。
となると、今度はもう一つ先にある、
「神経内科」
なるところは、さらなる敷居の高さを感じさせるのではないだろうか?
カウンセラーのような、精神的な相談員に対しても、そのような苛立ちを覚えるのだから、専門家だと思っている神経内科の先生が、期待にそぐわない内容の話をしてくれば、何を信じればいいのだろう、
もっとも、相手が言っていることが正しくて、自分が間違っているという風に考えさえすれば、もう少し気が楽になるのに、どうしても、それができないのだ。
つまりは、
「自分を信用できないのに、どうして他人が信用できるというのか?」
というのが、強く意思に影響しているのである。
だから、神経内科の先生に、自分が考えていることと違うことを指摘されると、
「最後の砦」
である、神経内科に裏切られた気がして、
「じゃあ、一体次はどうすればいいのか?」
と、四面楚歌に陥った気がして、逃げられない状況に追い詰められた気がしてくるだろう。
そんな状況になりたくないからという理由での神経内科の利用なのに、完全に、
「ミイラ取りがミイラ」
になってしまい、どうすることもできなくなり、
「本末転倒もいいところだ」
と感じてしまうに違いない。
それでも、何とか、カウンセリングを聞いていると、結局、
「神経内科の受診をお勧めします」
ということになってしまった。
カウンセリングを受けていた時間、
「もったいない」
という思いもあったが、それよりも、
「神経内科に行くまでの、ワンステップと考えればいいのではないか?」
と思うことで、自分自身への慰めになる気がするのだった。
神経内科にいくと、最近では、
「少々、病が進行してきていますね」
と言われるようになった。
明らかに、面談の時に話す、岡崎の話の内容を、信じてくれていないのは、露骨に分かる。
「何で信じてくれないんですか?」
と、最初の頃は必死になって話したが、先生は聞く耳を持たない。
あたかも、
「そんな話を信じろとでも?」
といっているようで、明らかに、
「精神病に犯された岡崎を、先生が何とか治療して治そうとしている」
という構図が出来上がってしまっていたのだった。
そんな構図の中に押し込められている姿を、自分で想像している。
それは、まるで、箱庭に取り残されたように思うのだが、その箱庭の上から、もう一人の自分が覗き込んでいる。覗き込んでいる自分の意識も、覗かれている自分の意識も、両方持っているのだった。
だが、岡崎は、自分が平衡感覚を持てないのは分かっていた。
この場合の平衡感覚というのは、
「左右で別々のことをやっていても、器用にこなせる」
というようなことである。
それが顕著なのは、楽器ではないだろうか。
ピアノにしても、ギターにしても、左右でまったく別の動きをしているのに、ちゃんとできている。それが自分にはどうしてもできないと思っていた。
だが、それなのに、普通自動車の運転免許証は持っているのだ。
「車の運転は、左右で別々の動きをするのに、よくできているよな」
と思っていた。
そもそも、自動車学校に通う時、自分が一番懸念したことは、
「左右でまったく違う動きができるだろうか?」
ということだった。
案の定、最初はまったくうまく行かず、エンストを繰り返したりしていた。オートマ教習なのにである。教官からは、
「オートマ教習でこれなんだから、マニュアルだったら、とんでもないことになっていたかも知れないね」
と、言われ、少しへこんでしまったが、
「まあ、そうはいっても、君よりももっとひどかった人たちが、皆ちゃんと卒業して、免許を取っていくんだから、面白いよね」
というではないか。
「どうして、皆免許が取れるんだろう?」
と聞くと、
作品名:もう一人の自分の正体 作家名:森本晃次